2015年09月20日

青江舜二郎が見た「60年安保」

大変久しぶりの青江ブログの更新である。

9月19日未明、安全保障関連法案が参議院本会議において賛成多数で可決され、成立した。
大変、もやもやしたものが心に残っているが、うまく言葉にならない。そこで、今回の法案を語る時よく引き合いに出される「60年安保」の成立前後の状況を、青江舜二郎はどう見ていたのかを、活字になっているものから紹介してみたい。

 安保条約問題がとうとうこじれにこじれてしまった。
 私は、はじめは何となく反対(大きらいな岸内閣のやることだから)、そのうちに、これではいけないと、さいわい知りあいに保守党の議員が何人かいるので、会合のたびに内容をたずねた。
「いままでは無期限だった。それがとにかく十年という期限つきになったのだからそれだけでも進歩じゃないか。自由だ平和だとあなたたちはおっしゃるが、いま日本の安全が、アメリカの保護なくしてささえられているとそれではお考えか。アメリカがいなくなったその日からソ連が暴力的に侵入してくることはいままでのインチキなやり方からいってまちがいない。そのことを権力亡者の左翼はべつとして一般国民が歓迎しているとでも思っているのか」……

 そういわれて見ると、なるほどと思う。恐らく、この議会が解散になり、選挙がおこなわれても、やはり保守党が優勢で、社会党が天下をとることはなさそうだ(にもかかわらず、なぜ解散をしないのだろう)。そしてまたこの問題が論議され、いよいよ本決まりになる。それならそれでいいか? ……となるとやはり釈然としない。
 第一、私には、国民の総意がどこにあるかもたしかめないうちに、政府が勝手にアメリカへ行って何かを決め、帰って来てそれを議会にはかるという順序がわからないのだ。法律ではどう決められているか知らないが、民主国家の国民常識からいって逆だと思う。社会党なんかでも、藤山や岸があちらへゆく前にもっとそのことで手を尽くすべきではなかったか。

 日本国土の安全は、国民にとってまず考えなければならない問題だ。――とすれば、まずそれが、日本の立場において自由に、独立国の独立人の尊厳において′沒「されるべきではないか。それをいいかげんにしておいて、政府がアメリカと取引するのもドレイ的なら、帰ってくると、反対党がそのことの是非よりも、むしろ反米≠ニいう立場においてさわぎ立てるのも多分にかたよっている。社会党がアメリカ大使館へ行って、アイゼンハワー大統領に来てもらいたくないと申し入れたなど醜態のかぎりだ。相手がフルシチョフならグウの音も出ないじゃないか。一体、議員の社会的作法をどのように心得ているか。しかもまるで筋をとりちがえている。問題はアメリカではない。日本なのだ。アイゼンハワーに何の罪がある。ゆるせないのは彼でなくその前にペコペコして、何事かをとり決めて来たやつらだ。彼らは自分らの利欲のためにそれをなし、それゆえに、条約の内容を、ほんとうに私たちに説明することができない。それではそれに反対する社会党にどんなよい代案があるというのか。いまのままでは、私たち日本人は、永久にドレイ的境遇からぬけ出すことはできないのだ。

 私は、改定安保に反対の意志を表明し、デモにも参加した。しかし多少ほかの人とちがう点があるのではないかと思う。残念ながら私には、改定安保の内容が、私の努力にもかかわらず、いまだにのみこめないので、確信をもって賛成もしくは反対ができない。だから私は、いま早急に、それをおし通すことに反対するのであって、やがて、改定安保がよいとわかれば、賛成するかも知れないのである。しかしいまのままでは、ぜったいにがまんがならない。

上の文章は、雑誌『若い芸術』1960年7月号掲載のコラム「はくしょん記」からの抜粋である。書かれたのは成立直前の同年6月上旬ごろと思われるが、あまりにも今回の法案をめぐる状況と酷似しており、55年前の文章を読んでいる気がしない。まさに「歴史は繰り返す」である。野党にきちんとした代案がないこと、国民への説明が足りないことも同じだし、何より「国民の総意がどこにあるかもたしかめないうちに、政府が勝手にアメリカへ行って何かを決め、帰って来てそれを議会にはかる」というやり方が、そっくりそのままであることに驚かされる。55年が過ぎても、日本という国の「ドレイ的境遇」は少しも変わっていない。

次に取り上げるのは、この4年後の1964年に執筆された「干拓」という長編戯曲の一場面。掲載誌は『劇と評論』1968年秋季号。
劇中の住吉は20代なかばの建設所員、北見は初老の詩人である。

住吉 ぼくが学生の頃、あの安保斗争がおこりましてね、ぼくはやはり何も彼も放り出してあの運動に熱中しました。あれでもって政府をへこませることができれば、日本はきっと、はげしく、よくなると、固く信じていたのです。しかし結果は……

北見 ああ、あれはわしも参加した。若い連中とスクラムを組んで、何べんもデモ行進なんかやって……

住吉 ぼくはあの運動の挫折が、日本の方向を決したと思っているんです。日本の敗北を致命的にしたのは敗戦ではなくて、あの斗争ではなかったでしょうか。あのもうれつにふくれあがった革新の気運が、決定的な一夜があけると、まるでゴム風船のようにスーッとしぼんで行った。そして、ぼくは……それ以来、心のどっかがいたんでしまって。仲間はみんなあのショックからまもなく立ちなおったようでしたが、ぼくは……まだだめなんです。……何か、決定的な瞬間がせまってくると、ぼくは急に不安になってからだが動かなくなる。また何も彼もだめになるんじゃないかという気持がして……

今回の燃え上がったデモも、やはり「ゴム風船のようにスーッと」終息していくのだろうか。
posted by 室長 at 13:48| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月19日

『龍の星霜』正誤表

2011年4月に刊行された『龍の星霜 異端の劇作家 青江舜二郎』の本文中に、以下のとおり誤りがありましたので、この場を借りて訂正いたします。

3ページ 4行目 太源 → 太原
104ページ 3行目 太源 → 太原
104ページ 写真説明 坂東妻三郎 → 阪東妻三郎
106ページ 1行目 太源 → 太原
112ページ 7〜8行目 これはおそらく島 → これは島
133ページ 16行目 「日刊スポーツ」誌上 → 「日刊スポーツ」紙上
142ページ 4行目 (「作者の願い) → (「作者の願い」)
172ページ 8行目 太源 → 太原
181ページ 16行目 実証所義 → 実証主義
203ページ 1行目 一九三九年三月 → 一九三八年十二月
posted by 室長 at 18:32| お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月26日

青江舜二郎の描いた秋田

来たる6月11日、以下の要領でセミナーを行うことになりました。秋田周辺の方はどうぞご参加下さい。

秋田県立図書館 平成23年度秋田ふるさとセミナー

毎回、専門の講師の講演により、歴史・人物・芸術など様々な分野にスポットライトをあてて、ふるさと秋田を学びます。

第1回 平成23年6月11日(土)午後1時30分〜3時
  「劇作家・青江舜二郎の描いた秋田」


「河口」「干拓」「やけどした神様」などの戯曲に描かれた秋田の風土と人間像を読み解きます。

   講師:大嶋 拓(映画監督・青江舜二郎長男)
   会場:秋田県立図書館 多目的ホール

◎申し込み
入場無料 先着50名まで  
県立図書館カウンターまたは電話で受け付けています。 電話で申し込みの場合は氏名・電話番号をお知らせください。

   秋田県立図書館   〒010-0952 秋田市山王新町14-31
   TEL 018-866-8400  FAX 018-866-6200
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2011年04月30日

青江舜二郎の評伝『龍の星霜』完成!

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2009年の春から1年にわたって秋田魁新報に連載した青江舜二郎の評伝が、大幅な加筆・修正を経て、ついに刊行されました。タイトルは『龍の星霜 異端の劇作家 青江舜二郎』(春風社刊・1500円)。「龍」は青江の干支である辰を表わしています。

校正を終えた直後に東日本大震災が発生したため、一時は刊行の大幅な遅れも予想されましたが、どうにか、青江の命日である今日(4月30日)、こうしてお披露目できることとなりました。名装丁家・毛利一枝さんによる、星雲を思わせる神秘的な表紙カバー。そして帯には、若手論客として注目を集める北海道大学准教授・中島岳志さんの推薦文が。なかなか存在感のある一冊に仕上がったのではないかと思います。

詳しい内容等については、近日中に電子資料室の方にも情報をアップする予定です。
posted by 室長 at 21:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月19日

小幡欣治さんのこと

訃報:小幡欣治さん 82歳=劇作家、演出家
 「三婆(さんばば)」など商業演劇を中心に優れた作品を書いた劇作家で演出家の小幡欣治(おばた・きんじ)さんが17日午後10時3分、肺がんのため東京都内の病院で死去。82歳。葬儀は24日午前9時半、同品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場。喪主は長男聡史(さとし)さん。

 東京生まれ。工業高校卒業後、悲劇喜劇戯曲研究会に参加し、1950年に第1作を発表。56年の「畸型児(きけいじ)」で新劇戯曲賞(現・岸田戯曲賞)を受賞した。65年に東宝と専属契約し、「あかさたな」などで東宝現代劇の主柱となる。「安来節の女」「喜劇隣人戦争」などが高い評価を受けた。

 その後東宝を離れ、劇団民芸などに作品を提供し、晩年まで旺盛な活動を展開した。

 88年に「恍惚(こうこつ)の人」「夢の宴」で菊田一夫演劇大賞、07年に朝日舞台芸術賞特別賞と読売演劇大賞芸術栄誉賞をダブル受賞。10年に「神戸北ホテル」で第13回鶴屋南北戯曲賞を受賞。同10月に民芸が上演した「どろんどろん」が最後の作品になった。代表作に「熊楠の家」「喜劇の殿さん」など。有吉佐和子作品を舞台化した「三婆」は73年の芸術座初演以来、昨年で上演回数900回を超えた。


小幡欣治さんの訃報は、最初にネットで知りました。私はほんの数回しかお目にかかったことがありませんが、上の記事にもあるように、小幡さんは雑誌『悲劇喜劇』(早川書房)を母体として1949年に始められた戯曲研究会のメンバーで、その研究会で青江は一年以上にわたって劇作法のゼミナールを行っていました。以下に引用するのは、その講義内容を一冊にまとめた『戯曲の設計』の「あとがき」の一部です。

 このゼミナアルは、一九五五年十月から、約一年半近くつづけられ、その間、一人の脱落者もなく、毎回十人近くのメンバアが出席し、いつも同じような熱っぼさと、したしさのうちに終始した。会員諸君にはどうであったか知らないが、私にはとにかくたいへん勉強になり、つくづく、やってよかったと思う。ひとえに、戯曲研究会のひとたちのおかげである。話はつとめて具体的にと心がけたが、何しろ制作というしごとは、工員に旋盤の使い方を教えるというふうには具体的かつ精確にはゆかず、苦労したわりには効果があがっていないようなはがゆさを、いまだに感じている。もともと私の性質は、「便利な手引書」をこさえるには向いていないので、そういうつもりで読まれるかたにはたいへんお気の毒だ。その代り、じっくりと、実例を比較されたり、「戯曲線」を通じて引用された作品そのものにぶつかって見るというようなかたには、ある程度プラスが残ると信じている。(中略)
 終りに戯曲研究会のひとたちの名をかかげて本書が成った感謝のしるしとしたい。木下博民、小幡欣治、有高扶桑、渡辺桂司、中田稔、日野千賀子、浜崎尋美、長谷川行勇、木谷茂生、紀井具治、蜂谷緑、早坂久子(一九五六年当時)の諸君である。早坂久子さんにはその外にも、編集その他で格別お世話になった。
 一九五八年五月
青江舜二郎


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戯曲研究会の面々。右から2人目が小幡欣治さん、その左が青江(1958年)

私は2009年の2月、青江の評伝を書くにあたり、小幡さんにその当時のエピソードをうかがうため電話インタビューを試みました。ただ、その時は新作執筆の真っ最中とのことで、ゆっくりお話を聴くことが出来ずに終わったのが悔やまれます。以下はその時の小幡さんの発言をまとめたものです。

 研究会での青江先生の講義で印象に残っているのは「劇的境遇三十六」ですね。古今東西の戯曲も、そのエッセンスを取り出せば36通りしかないという…。あれは、実際に戯曲を書く上でずいぶん役に立ちました。研究会のあとは、早川書房の近くの喫茶店でみんなでお茶を飲んだりしましたが、どんな話をしたかは、残念ながらあんまり覚えていません(苦笑)。お酒を飲みに行ったりは、ほとんどしていないです。みんなお金がなかったから。青江先生の印象は、作家というよりは学者タイプだなと当時から感じていました。だから、晩年は評伝を書く方向に行かれて、正解だったんじゃないでしょうか。私も一回、(菊田一夫の)評伝を書いてみましたけど、資料集めやら何やら、地道な作業が多くて、戯曲の何倍も大変でした。あんなしんどいものはもう二度とやりたくない(笑)。青江先生はそれをずっとやられたんだから大したものだと思います。そういうのが体質に合っていたんでしょうね。


この時小幡さんがお書きになっていたのが、昨年鶴屋南北戯曲賞を受けた「神戸北ホテル」です。私も劇団民藝の舞台を拝見しましたが、奈良岡朋子さんのコミカルかつ哀愁をたたえたヒロイン像が新鮮な印象を残した一作でした。思えば、劇団民藝制作部の菅野和子さんを紹介してくれたのも小幡さんで、その口添えもあって、「法隆寺」初稿やスチール写真の借り出し、そしてインタビューなどがスムーズに進んだのでした。

小幡さんといえば、もうひとつ忘れられないことがあります。以前自分のサイトにも書きましたが、木口和夫さんという青江の鎌倉アカデミアでの教え子が2007年1月に亡くなった時のことです。木口さんは『悲劇喜劇』の編集部にいたことがあり、小幡さんとは古い友人同士でした。その小幡さんが告別式で述べた弔辞が強烈でした。

「若いころ、君からはずいぶんと金を借りた。それを返したという記憶はない。君にはどれだけ世話になったかわからない。君は劇作を志したこともあったが、商業演劇の世界に行かないで本当によかった。君のような正義感は、魑魅魍魎のうごめく演劇界には到底いられないだろうから…」
大変に思いのこもった、「生の言葉」の連続で、木口さんの人柄を知っている私には強く胸にこたえました。と同時に後半の、「君のような正義感は…」という部分は、そのまま青江にも当てはまるような気がしたものです。電話インタビューでの小幡さんの青江評と合わせると、興味深いものがあります。

4年前にはともに木口さんを送り、2年前には電話でお話をした方が、もはやこの世のどこにも存在しない――諸行無常です。とはいえ、生身の肉体とは違い、産み落とした作品は永遠です。魑魅魍魎うごめく世界の中で生き、最後まで演劇に添い遂げた小幡欣治さんに敬意を表するとともに、ご冥福を祈りたいと思います。

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青江の生誕百年CD/DVDをお贈りした折の御礼状。「城井友治」は木口さんのペンネーム(2005年7月8日消印)
posted by 室長 at 17:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月20日

平城遷都1300年

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劇団民藝「法隆寺」より。奈良岡朋子(左)と山内明(1958)

今年は平城遷都1300年に当たり、奈良は大変なにぎわいのようです。東京でも現在、三井記念美術館で「奈良の古寺と仏像 〜會津八一のうたにのせて〜」という展覧会が行われており、先日、それを観に行って来ました。その時の様子はもうひとつのブログに書きましたので、詳しくはそちらをご覧下さい。
この記念すべき年に、青江舜二郎の代表戯曲「法隆寺」が刊行されたというのは、偶然といえば偶然ですが、その一方、天の配剤のようにも思え、何かしらの感慨を覚えずにはいられません。展覧会には、作品に登場する夢殿の救世観音はさすがに出品されていませんでしたが、奈良時代前期に作られた夢違観音(法隆寺所蔵・国宝)がメインのひとつとして展示されていたので、心でそっと手を合わせ、刊行のご報告をして来ました。

さて、単行本『法隆寺』の巻頭グラビアは、劇団民藝からお借りした舞台写真を使用していますが、青江の手元にも、おそらくゲネプロの時に撮ったと思われる多数の白黒ネガが残されていました。それを新たにプリントしたところ、劇団には残っていなかった場面ショットも多数確認されましたので、劇団提供の写真と合わせ、その一部を公開したいと思います。滝沢修をはじめ、大滝秀治、佐野浅夫、佐々木すみ江、奈良岡朋子、北林谷栄など、名優揃い踏みの貴重な記録写真です。

こちらからどうぞ→ 法隆寺アルバム
posted by 室長 at 17:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月12日

「干拓」と安保闘争

久しぶりの更新です。以前、青江の長編戯曲「干拓」を評伝(第43回・2月6日掲載)で紹介したところ、それを見た八郎潟在住の読者の方(守屋ミヨ子さん)から、是非読んでみたいというお電話が秋田魁新報の文化部に入ったという話をこのブログに書きました。そこで守屋さんに「干拓」のコピーをお送りしたところ、ご丁寧な御礼のお手紙をいただき、それがきっかけで、3月に現地でお目にかかって、大潟村周辺を案内していただいたという話も載せました。
そしてつい先日、守屋さんから、改めて「干拓」についての、大変読みごたえのある感想文が届きましたので、ご本人の許可を得て、その一部をここでご紹介したいと思います。単行本化されていないため、「干拓」はなかなか一般にはお読みいただけませんが、いただいた感想文は、青江の「干拓」そのもの以上に「干拓」の精神を的確に言い表していると思えたため、公開を決めた次第です。

 最初読んだ時は、たとえ現地の者であっても、解りかねる、次元の異なる、また時空を越える内容が多く、大変難しい作品でした。しかし何度も読んでいるうち、作家の生涯と照らし合わせてみて、見えてくるものがあり、大変濃厚な内容を含んだ作品であることが、ジワジワ感じさせられました。

 彼(青江)は故郷へのなつかしさの余りの出来心で潟を訪れた訳でも、干拓という事業に作家魂がにわかにゆすぶられた訳でもないのだと私は思いました。千葉治平氏は、著書の中で、八郎潟干拓は日本の戦後史を凝縮したものだと言っても過言ではないと述べています。それ程の国家的意味のある事柄の奥行きを青江氏は知らなかったはずがありません。この問題が取り沙汰された頃から微に入り、細に入り情報を追い求め、思考していたに違いありません。なぜならこの作品にはいたる所に、自らの歩みの軌跡を検証し、これからの日本の在り方を問うている所があります。

 若者たちが、この厳寒の地で、そのエネルギーを燃やしている様に感動しつつ、一方で、かつて関与した満蒙開拓地での経験を重ね合わせている個所があります。何十キロも続く大きなケシの花畑を見て、日本国家がしかけている阿片政策の下心を読み、ぞっとしてひっくり返りそうになるのです。八郎潟の干拓地に色あざやかな家が建ち、マイカーが行きかい、レジャーや快適さを売りにしたパンフレットを見ると、満蒙開拓地のあのケシの花畑を思い起すのです。日本の国に咲く、あだ花でなければ良いがと懸念しているのです。そこでその事業の理念は一体何かと作者は声高に問うています。

 モデル農村は、(入植から)半世紀を経た今、迷える農商村です。クワとソロバンをうまく使いこなせない者は、すぐに敗者になります。また周辺住民から見ると、「見せる農業付き観光地」にも見えます。いや、見えるばかりでなく、私自身近場で旅行気分を無邪気に楽しんでいる一人です。しかしそれよりもおいしくて安全な水とピチピチした魚を食べたいというのが周辺の住民の本音ではないでしょうか。そしてあの海のような湖の原風景を日々なつかしんでいる一人です。

 住吉という男に、安保闘争の事を言わせている下りがありますが、この視点は今の日本にとって最もタイムリーな語りかけのように思います。あの運動の挫折が日本の方向を決し、真の敗北へつながったことは本当に現在証明されているように思います。彼はこの時、政治的敗北を言っているのではなく、精神的敗北も含めた敗北を言っていたように思います。「あのもうれつにふくれあがった革新の気運が、決定的な一夜があけると、まるでゴム風船のようにスーッとしぼんで行った」と表現しています。もっと言えば、理念を模索する力を失った瞬間でした。その後はほとんどの若者は宗旨変えして「理念の旗」を「利益の旗」にとりかえて新しい道を歩み出していきました。利益を得る快感は阿片のように我々の国をバラ色に彩っていた事を、我々は今気付いて腰を抜かしているような日々です。

一方、時の流れに棹ささず、頑なに理念を追い求めた作者(青江)の人生は修羅でした。しかし、作品の中に表現されている数々のセリフの中に、時空を超えて響いてくる予言者的思考の確かさを感じ驚きです。

 現代人は、時の業を永遠なるものへつなげようとする視点が欠けているのだと思いました。自分自身、厚化粧した今という時を楽しみ、ただあだ花≠追い求める人生でなかったかと深く反省させられました。

破壊と創造、憎しみと愛、不信仰と信仰のフィルターを通して、永遠なるものをさがし求める作者のあくなき求道の魂は決して埋もれることなく、逆にこれから光があてられるのではと思っています。幾多の技術、労力等が注がれた干拓事業、その理念は何だったのか、それが永遠性のあるものだったのかという問いが、この作品の大きなテーマのように思いました。
 この大きなテーマに向かって、「私も戦ってきた。そのため、さんざん人を傷つけ、自らも傷ついた。でも、愛し続け求め続けた人生だったことを、私の作品から読みとってくれ」と叫んでいるように思えました。修羅を生きてきた自分の中に、願わくは永遠につながるものを読みとってくれという願いをもちながら旅立っていったように思います。

守屋ミヨ子(秋田県南秋田郡八郎潟町)

以上は抜粋で、全体はこの倍近くありました。大変に熱のこもった文章で、まさに青江の魂と守屋さんの魂が共振しているという感触が伝わって来ました。作品が時間を超えて、読者と心を通わせる様子を目の当たりにした思いでした。

なお、作品中で「真の敗北」として語られていた1960年の日米安保闘争ですが、青江自身も、明確に安保改定反対の意志を表明し、若い学生たちに混じって何回もデモ行進に参加していました。「日本国土の安全は、国民にとってまず考えなければならない問題だ。とすれば、まずそれが、日本の立場において自由に、独立国の独立人の尊厳において′沒「されるべきではないか。それをいいかげんにしておいて、政府がアメリカと取引するのはドレイ的」であると雑誌のコラムに書いています(『若い芸術』1960年7月号)。
デモ隊が国会に突入し、樺美智子さんが死亡した、あの6月15日から間もなく満50年。青江の問いかけは、今も続いているのです。
posted by 室長 at 09:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月28日

『法隆寺』正誤表

2010年4月に刊行された『法隆寺』の本文中に、以下のとおり誤りがありましたので、この場を借りて訂正いたします。

104ページ3行目 液の毛 → 腋の毛
131ページ12行目 おかげて → おかげで
posted by 室長 at 14:29| お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月30日

『法隆寺』完成!

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ついに本日、『法隆寺』が春風社から発売になりました。見本は一昨日に届いたのですが、大変おしゃれな装丁に目を見張る一方、その存在感というか、予想以上のボリュームに、すっかり圧倒されてしまいました。
全422ページで、物差しで計ってみたところ、厚さ33mm。あと2mmあれば、いわゆる映画フィルムの標準サイズである35mmと同じです。いやはや…。
数ある青江の著作の中でも、『狩野亨吉の生涯』に次ぐ大冊で、まさに代表戯曲2作をぎゅっと収めた、記念碑的書籍のカンロクが漂います。

しかし、そんな体裁にも関わらず、手に取ってみるとそれほど重く感じないのは、春風社の三浦衛社長のこだわりで、OKサワークリームという種類の紙を使用しているからだとのこと。軽さ、めくりやすさ、見た目のやさしさ、そして何より、青江の著作はあまりお高くとまらない紙質が合っているのでは、と考えた上での選択だそうです。また、作品クライマックスの火災をイメージさせる表紙タイトル周辺の焼け焦げは、デジタル処理ではなく、ブックデザイナーの矢萩多聞さんが、実際に紙を火であぶってあのような模様を作ったそうで、ここにも作り手のこだわりが垣間見えます。昨年11月に一気に話がまとまり、かなり早いペースで制作が進んだのですが、そんな中でも、ぬくもりにあふれた本を世に出せたことを嬉しく思います。青江もこの出来栄えにはおそらく満足していることでしょう。

今日(4/30)は青江の祥月命日。本を仏前に供え、無事の刊行を報告するとともに、この1冊が半世紀の時を超え、新たな読者と実りある出会いを果たすことを祈願したいと思っています。

・春風社の『法隆寺』紹介ページ
posted by 室長 at 11:56| お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月02日

49〜51回分をアップしました

最後の3回分の連載画像をアップしました。
1年間のご愛読、誠にありがとうございました。
異端の劇作家 青江舜二郎

49 ともに生きた日々(3/20)
50 永眠(3/27)
51 ふるさと〈完〉(3/30)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 19:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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