2009年05月30日

「異端の劇作家 青江舜二郎」ネットでも読めます!

評伝9回めは、どうにか肺結核を克服し、翌年に旧制一高に入学するまでを書きました。ついに今回から「東京編」に突入です。しかし、新しいスタートを切ろうとすると水を差される、というのが青江の人生においてはとても多く、今回も、入学して半年で、あの関東大震災です。一高の名物だった時計塔が無惨に倒壊した写真がアルバムの中にありましたので、ここに載せておきます。

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さて、青江の評伝連載も開始からほぼ二ヵ月が過ぎ、あわただしいながらも何とか軌道に乗りつつあります。と同時に、秋田在住以外の方から、「どうにかして読む方法はないか」というお問合わせを頂戴することが多くなって来ました。そこで、秋田魁新報の担当者に、「このサイトで公開することはできませんか?」と相談してみたところ、意外にも快く承諾していただけたので、このブログと電子資料室の読書室から、掲載画像に直接リンクできるようにしました。当面は月遅れでの公開ですが、広くいろいろな方に読んでいただくことが可能になり、大変嬉しく思っています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

異端の劇作家 青江舜二郎

01 春に逝く(4/4掲載)
02 置き土産(4/11掲載)
03 商売嫌い(4/18掲載)
04 少年時代(4/25掲載)

※JPG画像での公開です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 10:40| お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月23日

死に至る病

ついに関東でも新型インフルエンザの感染が確認されました。既報のとおり、最初に感染が判明した高校生2人が在籍するのは川崎市内の私立高校で、同じ川崎市民である私としては穏やかではありません。新聞やテレビがそれを報じた21日朝には、早速秋田の知人から、安否を気遣うメールが届きました。「予防に努めるようにします」と返事をしたものの、完全に家から出ないということは不可能ですし、マスクの着用やうがい、手洗いくらいしか対策はありません。これから一体どうなるのでしょう。このペースで進むと、全国に蔓延するのも時間の問題という気もしますが、果たして市民生活にどれくらいの実質的被害をもたらすのか、今のところまったく想像できません。何カ月か経って、「前評判ほどじゃなかったよね」「どこもマスクが売り切れで参ったよ。何だったんだろう、あの騒ぎは」などと笑い話になっていることを祈ります。
さて、今回の評伝は「肺結核」です。やや強引ですが、感染症つながりです。今は日本中の人たちが新型インフルエンザにおびえていますが、明治大正のころは、まさに結核こそが、全国民が恐れる「死病」でした。当時は、まだストレプトマイシンのような特効薬が開発されておらず、発症すれば、あとはただ死を待つばかりだったのです。実際、樋口一葉、国木田独歩、石川啄木、長塚節、梶井基次郎など多くの作家が若くして結核で亡くなっています。そんな病気にかかってしまった青江の動揺はどれほどだったでしょう。大正11(1922)年2月7日の日記には、
自分はたうたう肺病の初期だと云ふ宣告を受けた。血が凍ったやうに思ふ
との記述があります。その前後の文章は乱れがひどく、判読することができません。人は難病の前でいかに無力な存在であるかを思い知らされます。

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結核は現在では死に直結することはなくなりましたが、それに変わる「死病」はその後も次々に現われ、人類を脅かし続けています。たとえばAというウイルスに効果のあるワクチンが開発されても、今度はそれに耐性を持つBというウイルスが出て来て…、という具合で、まさに永遠のイタチごっこです。死に至るウイルスや細菌との戦いは、人類の歴史がある限り終わることはないのではないかと、今回のインフルエンザ報道を見て改めて感じました。
posted by 室長 at 08:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月18日

鎌倉アカデミアを伝える会 2009

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一昨日(5/16)、鎌倉・材木座の光明寺で、【鎌倉アカデミアを伝える会 2009】が開かれました。鎌倉アカデミアは終戦直後の約4年間だけこの世に存在した幻の大学で、1946年5月に光明寺の本堂を仮教室として開校。戦後自由主義の下、多彩で優秀な教授陣が教鞭を取ったことで知られています。青江舜二郎も、開校2年めの1947年4月から50年9月まで演劇科の教授として在職し、学長の三枝博音とともに、最後まで学校存続のために奔走しました。

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私がこの光明寺を訪ねるのは、3年前に行われた【鎌倉アカデミア創立60年記念祭】以来。【伝える会】はその翌年から開催され、今年で3回目とのことです。13時少し前に寺に着くと、もう中庭の記念碑の前では、亡くなった生徒や教職員の霊を弔う碑前祭が始まっていて、若いお坊さんがお経を上げていました。参加者は、教職員の家族、卒業生、地元鎌倉の有志など、総勢約50名ほど。読経が終わると一同は書院に移り、2時少し前から茶話会が始まりました。プログラムは、卒業生や関係者によるショートスピーチや朗読などです。

今回はその中に、声優・川久保潔さんによる朗読がありました。演劇科の2期生だった川久保さんは、アカデミアにおける青江の最初の教え子で、その交遊は親子二代に渡り、私も、自分が監督をした映画「カナカナ」やボイスドラマ「水のほとり」に出演していただくなど、たいへんお世話になっています。その川久保さんが、「スピーチは得意ではないので、青江先生の書いたものを何か朗読したい」との意向を、会の運営スタッフである鎌倉中央図書館の平田恵美さんに伝えたということを聞き、それならばと、青江が鎌倉アカデミアの最後の日々を綴った「わが白鳥の歌=vという随想を10分程度の長さに抜粋して、読んでいただくことにしました。先ほど、「学長の三枝博音とともに、最後まで学校存続のために奔走…」と書きましたが、もっと具体的に言えば、ひたすら金策に走り回ったわけです。授業料の滞納も多く、スポンサーもつかず、そのころの教授陣はほとんど給料なしで授業を続けていたといいます。

090516-05.jpg 青江のノート。連日金策に奔走したことが詳細に記されている

三枝学長と青江は、経団連の事務局長だった堀越禎三の紹介で大映社長の永田雅一と会い、彼からかなりまとまった額を融通してもらうことに成功します。その帰り道、青江は三枝学長と東京駅の地下街で、コロッケをほおばりながら(それが二人のささやかな夕食でした)、大映から託された金の使い道を巡って、激しい議論を戦わせるのです。その様子を川久保さんは、まるで二人がその場にいるかのような迫力と臨場感で語ってくれました。かなり生々しい内容なので、ここで詳細を書くことは控えますが、戦後のある時代の教育者たちは、たとえ自分は食うや食わずでも、おのれの使命と学生たちの未来のために、文字通り体を張っていたということだけは間違いありません。その姿はまさに「聖職者」と呼ぶにふさわしく、最近のように、「教師もいろいろある職業のうちのひとつ」なんかでは断じてなかったのです。そういう生粋の教育者がいつの間にかいなくなってしまったのは、社会にとって大変な損失なのではないでしょうか。

090516-03.jpg 朗読する川久保潔さん

川久保さんの朗読のあとは、私も少しだけ喋る時間を与えられたので、アカデミア演劇科の卒業生の方たちと青江との交遊がその後も長く続き、1976年には古稀のお祝いパーティーを催してもらったことなどをお話ししました。
私の後にマイクを握ったのは、これまた大変お世話になっている、やはり演劇科2期の作家・若林一郎さん。最近では、あの「ヤッターマン」の主題歌の作詞家として、お名前をあちこちでお見かけしますが、テレビアニメの世界からは離れて久しく、現在では紙芝居の「親方」や瞽女(ごぜ)唄の「はこや」などを自任し、古典芸能の伝承普及活動に力を入れています。その若林さんは、影絵劇団かかし座の例を引き、アカデミアの精神がどのように現代に生き続けているかをお話しになりました。

090516-04.jpg 若林一郎さんの軽快なスピーチ

他にも、文学科1期生の作家・山口瞳のエッセイを演劇科2期の小池栄さんが朗読したり、文学科教授だった西郷信綱の夫人があいさつをされるなど、何人かの関係者の貴重なお話があって、茶話会は16時15分過ぎに終了。私が帰る支度をしていると、ショートカットのはきはきした感じの女性が歩み寄り、「はじめまして、桐山です」と声をかけて下さいました。
「あ、これはどうもわざわざ」と、私もあわてて立ち上がります。彼女の名は桐山香苗さん。文芸雑誌『種蒔く人』の創刊者として知られる著述家、翻訳家の小牧近江のお孫さんです。小牧は後半生をずっと鎌倉で過ごし、鎌倉文士たちとの親交も深かった人ですが、アカデミアと直接の関わりはありません。では、どうしてこの会にお見えになったかといえば、意外にも、秋田つながりなのです。
小牧近江は青江よりも10歳年長で、1894年、秋田県土崎港の生まれ。昨年、桐山さんは秋田県に小牧の遺品を大量に寄託され、あきた文学資料館がその一部を整理して資料展示を開いたばかりです。私は昨年10月に秋田を訪ねた時にその展示を見ており、その折に資料館の関係者から、お孫さんである桐山さんが、大変熱心に御祖父の顕彰活動をされているという話をうかがって、どういう方なのか興味を持っていました。そして今回、中央図書館の平田さんから【アカデミアを伝える会】のご連絡をいただいた際、何かのはずみに桐山さんのお話が出て、桐山さんはずっと鎌倉在住で平田さんとは公私ともに大変に親しくしているというのを聞き、「それなら、このイベントにお誘いしてみてはどうでしょう。私も是非お目にかかりたいですし」と提案したようなわけです。
小牧も青江も、ともに明治時代に秋田で生を受け、後年は鎌倉とつながっていきます。その孫と子が、こういう形でめぐり会うというのも、なかなか得がたい体験です。短い時間でしたが、楽しくお話しさせていただきました。

来年は鎌倉アカデミアが閉校して満60年。当時のことを直接知る方も年々少なくなってきています。しかし、教育の理想の姿を懸命に模索しながら燃え尽きた、この幻の大学の志(こころざし)を、何らかの形で後の世に伝えていく必要を痛感しました。

komyoji02.jpg 創立50年を記念して建てられた記念碑
posted by 室長 at 11:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月16日

処女作は行方不明

評伝7回めは、秋田中学時代に文学に目覚め、初めて小説らしきものに手を染めた、その前後の状況を書きました。しかし残念ながらその原稿は現在のところ行方不明で、果たしてこの世に残っているのかいないのかもわかりません。もっとも先日、何と青江の小学校時代の通知表や書道用紙などが押入れの奥から見つかったので、その小説がひょっこり出て来たとしても不思議ではないのですが…。代わりに、第一高等学校時代に書いたと思われる散文の画像を載せておきます。

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posted by 室長 at 10:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月09日

野球に燃えた日々

評伝6回めは、青江の父・長三郎の葬儀前後のことや、その父の名を継いで「長三郎」を名乗るようになった経緯などを書きました。今回載せた葬列の写真も、掲載の〆切直前に、従姉妹から「母(青江の妹)の遺品の整理をしていたら見つかった」と言って何枚か送られてきたものの1枚です。実は、表面が全体に薄く見辛くなっていたため掲載を断念した写真の中に、喪主を務めた青江の姿が写っていました(下写真、かみしもをつけた少年が青江)。

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なお前回の掲載分で、長三郎が亡くなった時、一番下の子は一カ月前に生まれたばかりだったと書きました。厳密に言うと、末の妹である祥子の誕生は1915年10月1日、長三郎の死が11月7日ですから、その間わずか38日。ほとんど入れ替わりといってもいいくらいです。なお、これには何やら因縁めいた話があり、青江の手記によれば、子(ねずみ)年の長三郎は以前から「子祥」という雅号を持っていて、その一字を取って「祥子」という名をつけたらしいのですが、自分の大事な雅号を娘に託したというのは、やがて死ぬという虫の知らせではなかったかと周囲の人たちは噂したということです。

話の真偽はともかく、その祥子叔母は、現在93歳で今も健在、都内のマンションで、週に何度かヘルパーさんに来てもらいながら、普通に生活をしています。父親が短命だった分、その命をわけてもらったように思えなくもありませんが、三番目の妹の和子叔母も、昨年11月に亡くなった時は96歳でしたから、大嶋の一族は本来長生きの家系なのかも知れません。私は今年の3月、連載に先立って祥子叔母と実に久しぶりでお目にかかり、秋田時代のこと、戦争中のこと、戦後の一時期、青江夫婦と同居していた時のことなど、たくさんのエピソードをうかがいました。彼女も、兄である青江の評伝が故郷の新聞に載ることを大変喜び、何と、この4月から秋田魁新報を取り始めたということです(少し遅れるようですが、東京でも取れるとのこと)。この連載がきっかけになって、ご無沙汰続きだった人たちと再会できるのは、私にとっても大きな喜びです。まあ本当は、こういうきっかけがなくても、もっと日頃のお付き合いを大切にしなくてはいけないのですが…。

さて、前回お約束した秋田中学時代の野球のエピソードですが、字数の関係で、あまり多くを載せることはできませんでした。もっとも字数の関係というのは言い訳で、私自身があまり野球に関心が高くないため、大いに盛り上がって書くということが出来なかったためかも知れません。青江の手記そのものを見てみると、かなり熱っぽく、しかも克明に当時の状況が記されており、本人にとっては、忘れ難き青春の1ページであることがうかがえます。というわけで、その一節を以下に引用します。大正時代の学生野球のことを知りたい方には興味深い記述だと思われます。

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上の写真は東北予選に出発する直前の1921年7月30日に、楢山グラウンドで撮影されたもの。前列左から3人目が青江(帽子の影でほとんど顔がわからないのが残念)。

 三年の時野球部に入った。
 秋田中学は朝日新聞主催の第1回全国中等学校大会の第一戦で、優勝候補の第一とされていた早稲田実業を破って大いに注目をあび、とうとう決勝戦に進んで京都一中に延長11回3−2で敗れたという輝かしい歴史がある。長崎広という速球投手がいて一試合奪取三振二十いくつという記録をもっていた。それ以前には全盛時代の慶応に石川真良という好投手をおくっている。そのつながりで代々慶応からコーチを受けていたが、私が野球部に入った年は、適当な選手を得ることができず、明大の名遊撃手安藤主将が来てくれた。後で東急フライヤーズの監督をやったひとだ。
 その年、早稲田系の強剛盛岡中学とともに優勝候補にあげられながら秋田中学は仙台の東北予選で、第一回戦の第一回第一打者の遊撃手がこめかみに死球を受けて昏倒退場、その裏で捕手が急所にファウルをあててひっくりかえり、さらに突き指で中指と食指の間がさけて退場というような災難がおこって、守備に大きな破綻が生じ、入部後二ヶ月にもならない私までが引っぱり出されてレフトを守るということになった。これではとても勝てるはずがない。楽勝のはずの相手に大差をつけられて惨敗。
 四年になって捕手となる。とても弱く朝日の大会に出てもてんで見込みがないという先輩の意見で出場を見合わせ雪心練習にはげむことになる。夏休みのコーチには慶応から鈴木三塁手が来た。慶応式野球セオリーのノートを丹念にとらされ、ゲーム中に起こるさまざまなプレーを例に、野球規則をこまごまと叩きこまれる。この智的な複雑さ。これらでもって私はほんとうに野球が好きになった。さらにそのあとで北海道遠征の帰りの慶応野球部が寄ってくれ、秋中の先輩が現職している矢留クラブと試合をし、はつらつたる技を見せてくれ、つぎの日、一日をさいて、ポジションごとのオールコーチをしてくれる。ちょうどチームの黄金時代で、投手に小野と新田、捕手が名だたる森秀雄、遊撃に桐原という小柄の名手がいて、一塁が強打の永岡、二塁にしぶい長身の竹中、外野が高浜、山岡、高須。補欠に大川、青木などがいた。森氏は私に基本だけでなく、打者との心理的かけひき、トリックプレイ、審判の牽制のしかたなどセオリーのノートにないことまでことこまやかに教えてくれる。見方によってはもうれつな詰込み主義だが、私にはちっとも苦痛でなく、ますます生き生きした興味が湧いてくる。そのあとで、森、小野、新田が一緒になって、私と築地という投手に、バッテリープレイというものを教えてくれる。築地は後に立教大学に進んで投手をやり慶応を2−0(?)で破って当時の“恩返し”をした。立大がリーグ加盟以来はじめて慶応に勝ったのがこの試合である。
 この“研修”によって私が学びとったものは、ただそうした野球の“高等技術”だけではなかった。“人を教える”とはどういうことなのか、またどうでなければならないかということ、――すなわち私は、このひとたちの真劔で親身なコーチのしかたに深い感動を受けたのであった。(中略)
 その年の冬休みに私は私なりの“捕手のセオリー”をまとめ上げた。慶応式セオリーを骨子とし丸善からとりよせたスポルディングのガイドブック、ベースボールマガジン、その他から必要なものをさらに取って整えたものである。これは私の次の捕手にそのまま伝えられた。宮武、水原のいた黄金時代に、捕手をやった伊藤である。いま、その“虎の巻”はどうなっているだろう。
 五年の時のコーチは慶応の永岡一塁手であった。仙台の東北大会に出場、第一回戦から第三回戦の準決勝まですべて完封勝。その準決勝戦で投手の築地は本塁にすべろうとして足を捻挫しまったく動けなくなった。第二投手の三浦は右投げで、球にクセはあるがひどいノーコンでとてもつかえない。一日雨で休んでの決勝戦は、築地が注射で足の痛みをとめてマウンドにあがる。相手は強剛盛岡中学であった。さかんにバント攻めをやられ、9対0で負け。もし築地が完調であっても勝ち目はなかったのではないかと私はひそかに思う。するどいドロップとアウトドロップをうまくまぜて投げてくる投手をうちの実力ではなかなか打ち崩せそうにもなく、内野の守備がまた段違いに向こうがうまかった。
(青江舜二郎「クロオズアップのある略伝」より抜粋)

posted by 室長 at 11:04| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月06日

「大どろぼうホッツェンプロッツ」という人形劇

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一昨日、「大どろぼうホッツェンプロッツ」という人形劇を見て来ました。人形劇団ひとみ座によるこの劇は、今から30年以上前の1972年に初演。その時の脚本を青江舜二郎が書いています。

今でもよく覚えているのですが、私が小学校2年生の時、誕生日のプレゼントでもらって読んだ原作本(偕成社版)がとても面白く、それを青江に見せたところ、「たしかにこれは面白い。人形劇にしたら子どもたちが喜ぶだろう」ということになり、以前から縁のあったひとみ座に話を持ち込んで、とんとん拍子に話が決まったそうです。
お話の方は、おばあさんが大切にしていたコーヒーひきを大どろぼうのホッツェンプロッツに盗まれ、それを取り返すために孫のカスパール(利発な少年)と、その友だちのゼッペル(こちらはちょっと抜けた性格)が奮闘するという、笑いあり、サスペンスありの冒険活劇。ひとみ座は1972年4月から翌年の3月まで、この作品の全国の小学校巡演を行い、私の通っていた小学校にもやって来ました。開演前の口上で、主宰の方が、「この地区の青江舜二郎先生が脚色した『ホッツェンプロッツ』、いよいよ始まりです」と挨拶された時には、密かに誇らしい気持ちになったものです。

この「大どろぼうホッツェンプロッツ」は大変に好評だったようで、その後もたびたび再演され、そして最近では、2005年から新演出の「大どろぼうホッツェンプロッツ」を、ひとみ座は「劇団の代表作」と銘打って上演しています。しかし、再演に際し劇団からの連絡は特になく、最近の公演情報を見ても青江の名前は入っていません。ですから、あの時の脚本ではなく、新たに書き下ろしたもので上演しているのだろうと思っていました。とはいえ同じ演目ですし、「最新版」が果たしてどういうものか前々から興味があったので、この度、比較的近い新百合ヶ丘で行われた公演を観に出かけたというわけです(川崎・しんゆり芸術祭2009のプログラムの1本として上演)。

結論から言うと、やはり青江の脚本とは異なっていました。私は原作本と青江の脚本の両方に改めて目を通した上で上演を見たので間違いありません。ストーリーはどちらもおおむね原作に沿っていますが、最新版では、人形ならではのオーバーアクトというか、ドタバタや繰り返しが強調され、より娯楽色が強くなっているように感じました。これも時代の流れというものでしょう。テレビゲーム世代の子どもたちには、セリフ中心よりも動き中心でアピールした方が、確実に受けがいいでしょうから。実際、ドタバタは大変受けていました。しかしその分、ストーリーや心情を語る部分がいくらか薄くなっているように思えたのが残念です。
たとえば、物語の後半のキーになるキャラクターのスズガエル(実はアマリリスという妖精だが、魔法使いの手でカエルの姿にされてしまっている)は、青江脚本では泣き虫でかなりイジイジした性格に描かれ、カスパールが彼女を元の姿に戻せる妖精草を取ってきても、深い池の中にいる彼女は、「届かないわ」などとめそめそしています。それが最後の最後、魔法使いが二人に迫ってくる、という危機一髪のところで、カスパールは、
「とべ! 精一杯とぶんだ。きみはカエルだろう!」
と叫び、それでスズガエルは思い切りジャンプして妖精草に触れ、元の姿に戻るという展開になっています(このセリフは原作にはない、青江のオリジナルです)。

これが最新版になると、スズガエルは普段は深い池の中にいるものの、平気でピョンピョン丘の上にもあがってきていて、また、カスパールを背中に乗せて妖精草を取りに行く手助けをするなど、初めからかなりパワフルです。「イジイジしていたキャラクターが、土壇場で勇気を出して行動を起こす」というのが、ドラマにおけるひとつの転換点、いうなればクライマックスだと思うのですが、そういう展開の妙はなく、しかも、元の姿に戻るためには妖精草でお腹を3回こすらなければいけない、という設定が加えられ、そのために腹ばいになるカエルの「へんな格好」で笑いを取ろうとするのも、緊迫感を前面に出すべきクライマックスの演出としてはいささかミスマッチでは?と思ってしまいました(この辺は多分に好みもありますが)。

しかし、最新版の方が明らかによくなっていると感じた点もあります。それは、少年たちが魔法使いの城を脱出してからラストに至る流れです。実は、この作品は題名が「大どろぼうホッツェンプロッツ」というとおり、本来の主人公はホッツェンプロッツのはずなのですが、原作では中盤以降、魔法使いとスズガエルが話の中心になり、そのあげくホッツェンプロッツは魔法使いによってウソドリに変えられ、あとはラストでバタバタ逮捕されるだけの哀れな存在で、後半はほとんど活躍するところがないのです。そして青江脚本も、原作のこの流れを踏襲しています。ところが今回見た最新版では、ウソドリに変えられたホッツェンプロッツが、崩壊寸前の魔法使いの城から、ゼッペルを助け出す、という見せ場を作り、さらに、人間の姿に戻って逮捕される時も、悪あがきをせず自分から縛につくなど、主人公らしい存在感を示しています。さらに連行される前の、
「おじさんありがとう」
「お前らもカッコよかったぜ」
などという少年二人と大どろぼうとのエール交換は、原作にも青江の脚本にもない完全なオリジナルですが、なかなか爽快感のある幕切れのセリフでした(もっとも、原作ではその後「ふたたびあらわる」等の続編が書かれるため、ホッツェンプロッツを悪人のままにしておく必要があったのかも知れません)。
それから、ホッツェンプロッツの俳優さん(人形の操演とセリフの両方を担当)の声がよすぎて、正直びっくりしました。初演の時には、もっとおっさん臭いダミ声で、道化的な三枚目の雰囲気だったのですが、今回はあきらかに二の線、でも考えてみればタイトルロールなんですから、その方が正統派です。そういった変遷にも新鮮味を感じました。

とにかく、30数年ぶりに見た「ホッツェンプロッツ」、脚本は変わっていたものの、人形デザインは昔どおり、ストーリーも大筋はそのままですから、見ていくうちに、小学校3年生当時の気分が、時おり心に蘇ってくるのでした。ひとつのレパートリーが時間を越えて生き続けるのはいいものです。休憩時間や帰り道、何組かの親子の話に耳を傾けてみたところ、子どもたちのパパやママの中には、子どものころ「ホッツェンプロッツ」の人形劇を見たことがある、と言う人が何人かいたようでした。だとしたら、それはまさしく青江が脚本を書いていた時のものです。こんなところで、そんな昔の観客と「再会」できたのもささやかな収穫でした。

それにしても、小さい子はやっぱり大どろぼうとか魔法使いのデザインが怖いんですね。始まって5分と経たないうちに、大声で泣きわめく子どもの声がいくつも場内に響き渡り、親がいくらなだめても泣き止まない子は、哀れ親子そろってご退場…。恐怖を克服することで子どもは成長するものだと言います。それが本当なら、あの子たちにももう少しがんばって見続けて欲しかったような気がしました(ちょっと酷かな)。

最後に、ひとみ座初演時のチラシの画像と、その裏面に載せられた青江の小文をアップしておきます。

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人形こそは人間
(ホッツェンプロッツ脚色によせて)

青江舜二郎


まだ読売新聞が、毎年の国際演劇月の行事として児童演劇コンクールをやっていた頃、私もその審査員の一人だった。15年以上も前のことだろうか。

他の児童劇団はたいてい東京の劇場で参加作品の公演をやるのに、ひとみ座は横浜や川崎の小学校の講堂でやる人形劇で最初の年は参加した。たしか明るい民話劇風の人形劇で脚本賞を受けたはずだ。そして二回目の参加、場所は横浜市鶴見区の小学校。丁度梅雨時のむし暑い日、講堂に満員の生徒たちの中で、汗まみれになって私がみた人形劇は、ロシアの雪の精マロースとイワンが登場する「寒さの森の物語」だった。暑さも吹きとばす迫力と新鮮さに感動した私は、審査会でこれを第一位に推した。ところが他の審査員は誰一人みていないのだ。こんな時にはたいがい一人の方が負けてしまうが、私はあきらめず推し続けた。そのせいか遂に「寒さの森〜」が第一位になった。次の年は「悪魔のおくりもの」で、これは数人の審査員がみたので文句なしに最高賞を得た。

シェイクスピアの「マクベス」も忘れられない。渋谷の東横劇場の大舞台でシュールでメカニックな、それ故に各々の個性がより強烈に迫る人形たちの凄じさ、もう一つの驚きは、あの長い原作のセリフをほとんどノーカットで人形が演じたことだが、そうした二つの冒険にもかかわらず、対象とした中学生の観客が、倦きずに最後まで舞台に惹きつけられていたのに、私はあらためて驚嘆し、この劇団の人たちを尊敬さえするようになった。私の知人で国際演劇協会副会長のギルダー女史が丁度アメリカから来ていたので、帝国ホテルから引っ張り出してみてもらった。女史は「表現も漸新だが、それよりもセリフこそがエスプリと云われるシェイクスピア作品を、カットなしで人形劇にしたのがすばらしい。スタッフの深い理解力がなければ出来ないことだ」と絶賛した。

それから10年、ひとみ座はぷっつり消息を絶った。児童演劇の発表会を東京都が主催するようになってもさっぱり出演しない、NHKに連続出演していると聞かされ、それでは舞台活動はもうやめたのかと、がっかりした。
昨年、『大どろぼうホッツェンプロッツ』という子どもの本を読んだ。おもしろくて面白くて、これを人形劇の舞台でみたらどうだろう、私自身で脚色もしよう、そしてやってもらうならひとみ座だ、そう思うとじっとしていられず大急ぎで行方をさがすと、なんと私とはいわば隣組の川崎の井田ではないか。早速連絡して、この話はたちまちきまった。ひとみ座は昔通り舞台に意欲を燃やしているらしいのだが、ではなぜ「東京都の発表会に出ないのか?」と私はたずねた。
「ひとみ座は川崎に腰をすえて10年、テレビだけでなく舞台活動を展開するなら、まず地域の子どもたちにおもしろい人形劇を提供するのが本筋だと思う」との答えだった。そして、親子劇場など市民文化運動とも手をつないでいろいろやっている―という。たしかにその通りである。またそうでなければならないのだと、私ははずかしかった。

ヨーロッパ各国には「子どもの時は人形劇、大人になればオペラ」という伝統がある。ゲーテが世界的名作「ファウスト」を書いたのも、子どもの頃みた「ファウスタス博士」の人形劇が動機だと云われている。今度はじめて人形劇脚本に書かせてもらった「大どろぼうホッツェンプロッツ」が成功してほしいと願わずにはいられない。
posted by 室長 at 18:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月02日

親子二代の「死」の形

一昨日(4月30日)は青江舜二郎の命日でしたが、本日掲載の評伝第5回では、青江の父・先代大嶋長三郎の死のことについて書きました。まるではかったようなタイミングですが、これも必然をはらんだ偶然というものかも知れません。

青江は11歳の誕生日を迎える月に脳溢血(脳出血)で父を亡くします。小学校5年の少年にとって、目の前で父親に死なれたショックはどれほどだったでしょう。そして「歴史は繰り返す」の言葉どおり、息子の私も、20歳の誕生日を迎えたその月に父の青江を看取ることになります。どちらも、かなり早い別れです。それでも、20歳といえば一応大人ですから、許容範囲(?)という考え方も出来なくはないのですが、厳密に言えば青江が脳梗塞を起こして病床に就いたのは、亡くなる7年前の秋のことですから、現役であった青江との別れは13歳の時で、11歳で父を失った青江とあまり変わりません。倒れたのが同じ11月で、ともに脳血管の損傷であることにも、親子二代の負の因縁を感じます。

青江は父の突然死を目の当たりにした衝撃と恐怖で、PTSDのような症状に襲われますが、一方の私は、青江の長い闘病生活を通して、人間の脆さとはかなさを知り、中学高校時代は、慢性的ともいえる抑うつ状態に陥っていました。一瞬の死も、緩慢な死も、それに直面した人間の精神にはかなり深刻なダメージを与えるもののようです(でも、どうにか克服して今日に至っています)。

連休中だというのに、あまり楽しい話を提供できず申し訳ありません。来週の評伝は心機一転、秋田中学の野球部でキャッチャーとして活躍するなど、やや明るい話題も入れ込む予定ですのでご容赦の程を。では、どなた様もよきゴールデンウイークを。
posted by 室長 at 10:53| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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