今回は、戯曲「火」と「見物教育」が小山内薫に認められ、彼から築地小劇場入りを薦められるという「幸福」を味わいながらも、その1週間後には千葉の海岸に引きこもってしまうという、一見不可解に思える青江の行動を書きました。本人の書き遺したものを引用すれば、「金融恐慌による政情不安で世の中の気分は革命前夜、とても文学や演劇どころではない」ということなのですが、そのまま納得はできかねます。社会がどんなにひどい状況にあっても、文学を、あるいは演劇を選んだ人間はそれに身を捧げ続けるはずです。というわけで、私は青江の生い立ちを振り返り、独自の仮説を立てて、それを今回の原稿に書いてみたのですが、いささか主観にあふれ過ぎているため、その部分は全部没にしました。とはいえ「こういう解釈もあるのではないか?」という気持ちも捨て切れないため、このブログにそっと載せておきます。
…せっかく小山内薫の知遇を得たのだ。この休暇は、何をおいても築地小劇場に日参し、将来に備えての足場を固めるべきではないだろうか。(ここまでは掲載された文です。以下が削除部分)しかし、青江の生涯を顧みると、どうも彼の「幸福」には「恍惚」とともに「不安」が終生付きまとっていたようだ。それは、精神分析的な解釈を試みるなら、十歳の時の父親の急死による精神的外傷に起因するものといえるかも知れない。幼少期に不慮の事故や近親者の死などで激しいショックを受けると、幸福の絶頂にいる時さえ、「目の前のこの幸せは、次の瞬間にもろくも崩れ去るのではないか」と不安になり、幸福を幸福として素直に享受することができない人間になる場合がある。青江の場合も、そうした慢性的な「不安」が彼を支配し続けたのではなかったか。その結果、青江は無意識のうちに幸福から距離を置こうとしたとも考えられるのだ。
以上です。まあ、枚数に厳しい制限がある新聞連載では、こういう推測文ははずした方が賢明でしょうね。特に私は字数をオーバーする悪いクセがあって(先代ゆずり?)、6月6日掲載の「築地小劇場」の回では、通常より1行13字×6行分オーバーという禁じ手を犯しているのです。その分だけ、ほかの記事の字数を減らさなくてはならなくなったとあとから担当のG氏に聞かされ、これは大変なことをしてしまったと青ざめました。連載にそこそこ慣れて来て、筆が乗り始めた今こそ、おのれを厳しく戒めるべきでしょう。
さて、早いもので月末になりましたので、お約束どおり、先月分の連載画像をアップしておきます。
異端の劇作家 青江舜二郎
05 父の死(5/2)
06 「長三郎」襲名(5/9)
07 文学への目覚め(5/16)
08 肺結核(5/23)
09 一高入学(5/30)
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