2009年06月27日

ワンクール終了!

評伝も今回で13回を迎え、どうにかワンクール終了です。連続ドラマならこれで終わりなんでしょうが、今回の連載は(打ち切りがなければ)1年の予定ですので、あとこの3倍あります。道は険しいです。

今回は、戯曲「火」と「見物教育」が小山内薫に認められ、彼から築地小劇場入りを薦められるという「幸福」を味わいながらも、その1週間後には千葉の海岸に引きこもってしまうという、一見不可解に思える青江の行動を書きました。本人の書き遺したものを引用すれば、「金融恐慌による政情不安で世の中の気分は革命前夜、とても文学や演劇どころではない」ということなのですが、そのまま納得はできかねます。社会がどんなにひどい状況にあっても、文学を、あるいは演劇を選んだ人間はそれに身を捧げ続けるはずです。というわけで、私は青江の生い立ちを振り返り、独自の仮説を立てて、それを今回の原稿に書いてみたのですが、いささか主観にあふれ過ぎているため、その部分は全部没にしました。とはいえ「こういう解釈もあるのではないか?」という気持ちも捨て切れないため、このブログにそっと載せておきます。

…せっかく小山内薫の知遇を得たのだ。この休暇は、何をおいても築地小劇場に日参し、将来に備えての足場を固めるべきではないだろうか。(ここまでは掲載された文です。以下が削除部分)しかし、青江の生涯を顧みると、どうも彼の「幸福」には「恍惚」とともに「不安」が終生付きまとっていたようだ。それは、精神分析的な解釈を試みるなら、十歳の時の父親の急死による精神的外傷に起因するものといえるかも知れない。幼少期に不慮の事故や近親者の死などで激しいショックを受けると、幸福の絶頂にいる時さえ、「目の前のこの幸せは、次の瞬間にもろくも崩れ去るのではないか」と不安になり、幸福を幸福として素直に享受することができない人間になる場合がある。青江の場合も、そうした慢性的な「不安」が彼を支配し続けたのではなかったか。その結果、青江は無意識のうちに幸福から距離を置こうとしたとも考えられるのだ。


以上です。まあ、枚数に厳しい制限がある新聞連載では、こういう推測文ははずした方が賢明でしょうね。特に私は字数をオーバーする悪いクセがあって(先代ゆずり?)、6月6日掲載の「築地小劇場」の回では、通常より1行13字×6行分オーバーという禁じ手を犯しているのです。その分だけ、ほかの記事の字数を減らさなくてはならなくなったとあとから担当のG氏に聞かされ、これは大変なことをしてしまったと青ざめました。連載にそこそこ慣れて来て、筆が乗り始めた今こそ、おのれを厳しく戒めるべきでしょう。

さて、早いもので月末になりましたので、お約束どおり、先月分の連載画像をアップしておきます。

異端の劇作家 青江舜二郎

05 父の死(5/2)
06 「長三郎」襲名(5/9)
07 文学への目覚め(5/16)
08 肺結核(5/23)
09 一高入学(5/30)

※JPG画像での公開です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 10:26| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月20日

日々、調査中

評伝12回めは、初めての戯曲「火」が生まれるまでの経緯を中心に書きました。筆者としては、今回と次回が1クールめ(4〜6月期)の一番の山場だと思っています。なお、紙面に掲載した1959年5月(今からちょうど50年前)の初演舞台写真は商業公演ではなく、日本大学芸術学部の学生による中央公演で、講師であった青江みずからが演出も手がけています。『新思潮』に発表してから32年という月日が流れていました。それでも、記念すべき第1作が初めてスポットを浴びるということで、青江も大変熱を入れて演出に当たっていたようです。

さて先週は、これからの執筆に必要な資料調べのため、共立女子大学と早稲田大学演劇博物館に行って来ました。
まず共立女子大学には、以前このブログでもご紹介した<築地小劇場展>で展示されていた戦前の検閲台本(演出家・北村喜八の遺族から寄贈されたもの)が多数収蔵されており、もしやと思って問い合わせてみたところ、青江の戦前の代表作「河口」の検閲台本もたしかにその中にあるとのこと。警察当局の赤が入ったものなど私は当然見たことがなく、果たしてどれくらい削除や修正が為されているかをこの目でたしかめに出かけたのでした。
「女子大」と名のつくところに入るなんていうのは、まだ大学生だったころに女子美大の学園祭を冷やかしに行って以来で、人生でもかなり稀有な体験です。それなりにドキドキして当日を迎えたのですが、ツタの絡まったレンガの門や噴水のある中庭なんかを想像していたら、神保町の地上出口を出たところにいきなりそびえ建っている「本館」は、いわゆるオフィスビルなんかと変わるところのない高層の建築物で(お隣の小学館より高いのには驚きました)、門も噴水も中庭も一切なく、実に機能的な空間でありました。あんまりイメージを先行させちゃいけませんね。

kyouritsu.jpg 神保町の駅前にそびえ建つ本館

それでも中に入ってみれば、行き交う生徒さんは当然ながらすべて女性。フェリーニの「女の都」が一瞬頭をよぎりました。私が訪ねたのは、文芸学部の中の劇芸術研究室。担当の阿部由香子准教授とはこれが初対面でしたが、阿部先生が師事した故・藤木宏幸氏は青江の日大での教え子であるというご縁もあり、大変に快く応対していただきました。また同じ研究室の助手の方は、何と私の監督作である「火星のわが家」のビデオを持っている、なんていう話も出て(堺雅人くんの大ファンとのこと)、大変になごやかな雰囲気の中で資料調べを行うことができました。評伝に「河口」が登場するのはまだ少し先ですが、今回の調査が何らかの形で活かせるのではと思っています。

kenetsu.jpg 台本には「削除」のゴム印と朱線が…

その翌日には、早稲田大学演劇博物館へ。演劇の調べ物ならまずはここです。上にも書いた第一作の「火」が小山内薫に認められ、それ以降小山内に師事するようになる、というフレーズは、青江が自らの筆で何度も書いていますし、人名辞典や筆者略歴など、青江のプロフィールを見ると必ずその一文が入っています。しかしながら、小山内がいつ、どういう状況で、「火」を評価したのか、具体的なことはこれまでほとんど明らかにされていません。まあ、「もう定説になっているのだからそれでいいじゃないか」と言えばそれまでなのですが、評伝を書く人間としては、ことの次第をもう少しはっきり調べたくなり、当時の青江の日記(なぐり書きのためほとんど判読不能です)をどうにか読み解き、ついに、1927年1月27日のページに、「小林(勝)、「火」のことを小山内氏『劇と評論』にかいてあると云ふ。帰り(本屋を)のぞく」との記述を発見しました。『劇と評論』は小山内が編集に携わっていた雑誌です。これさえわかれば、ということで、いさんで早稲田に向い、『劇と評論』の1927年2月号を閲覧し、内容を確認しました。この中に書かれている小山内薫の文章については、次回の連載でご紹介する予定ですので、どうぞお楽しみに。

こんな感じで、最近は資料探しのために図書館や研究機関を訪ねたり、青江を知る関係者と会って当時のことをうかがったり、という「調査」の機会が増えて来ました。連載が決まってからお会いした関係者の数もすでに10人を超えています。いよいよ評伝作家っぽくなって来たじゃないか、と、ちょっとほくそ笑んでいるのですが、まだまだ先は長いことでもあるし、あまりヒートアップせず、悠然と事に臨みたいと思っています。
posted by 室長 at 19:22| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月13日

もはや考古学的作業?

評伝第11回めは、東大に進学、『新思潮』同人となって、「青江舜二郎」のペンネームを考案したいきさつなどを書きました。次回からいよいよ、本編の主人公が「長三郎」から「青江」に変わります。

さて、今回のブログでは、評伝連載と並行して行っている資料の整理(実はここ数ヵ月あまり進んでいません)について書きたいと思います。
押入れから束になった書類封筒や段ボール箱を引っぱり出し、中身を調べていくと、30年、50年前は当たり前、時には1世紀近く昔の物が出て来たりして、その年月の重さにため息がこぼれます。この間見つかった、幼稚園の保育証書(卒園証書)には「明治四十四年三月」という記載がありました。明治44年は1911年。あと2年経てばちょうど100年前です。

hoiku.jpg

さて、こういう昔の物の整理をしていて困るのは、経年変化のために資料がひどく痛んでいることです。古いノートやメモなど、ちょっと触っただけでポロポロと、まるでミルフィーユのように崩れてくるのものもあるので、息を殺し、細心の注意で扱わなくてはいけません。ここまで来ると、ほとんど考古学的作業です。以下、写真で実例をお目にかけましょう。

まずは、上にも書いた紙の劣化。戦前のものは案外いい形で残っているのですが、第二次世界大戦末期、および終戦後七、八年は物資が不足していたため、紙の質がひどく悪く、触ればポロポロ、茶色に変色して文字が判読できなくなっているものもあります。これは生原稿、印刷物ともに言えることです。時代状況はこういうところにも反映されるわけですね。ちなみにこの時代の紙(洋紙)はほとんどすべてが酸性紙と言われる紙です。

boroboro.jpg usui.jpg

最近では、この酸性紙の劣化が、出版業界や図書館業界などで、深刻な問題として取り沙汰されており、書籍などには長期保存が可能な中性紙が使われるようになっていますが、新聞や雑誌などは今でも酸性紙が使われています。新聞の切り抜きを保存しておくと、数年で茶色に変色してしまうのはそのためです。酸性紙の酸化を止めるための薬剤処理をしてくれる業者というのもあるようですが、なかなか素人レベルではそこまでは…。なお、和紙は洋紙に比べ酸化に強いと言われていますが、たしかに、卒園証書と一緒の箱に入っていた、小学校時代の書道用紙は、まったく変色も腐食もしていませんでした(下写真参照)。

syodo.jpg

次に、その紙を取り巻くやっかいな「小物」たちをあげておきます。

1)クリップ

clip01.jpg

錆びます! その錆びの跡が、紙にくっきり残って、ご覧のとおり。スチール製ですからしょうがないのでしょう。ですから、私は最近、クリップ本体にビニールコートをしてあるものを使用しています。これなら中が錆びても、直接紙には付かないはず…(下写真参照)。

clip02.jpg

2)ホチキス

staple.jpg

これも錆びます! クリップ同様、錆び跡が、紙にくっきり残ります。さらに困るのは、クリップは捨ててしまえますが、こういう中綴じの雑誌などの場合、雑誌の一部なので、本体からはずしていいものか、迷ってしまうのです。紙の保護を最優先に考えるなら、こういうものは捨て去るに限るのでしょうが…。

3)輪ゴム

gom.jpg

封筒やカードをちょっとまとめておくのによく使いますが、やはり長期保存には向きません。早ければ数年で溶けてきます(何せゴムなので)。それがベターッと紙にくっつき、その後再度固まって取れなくなっていることがあります。束ねるには、面倒ですが紐を使うべきだと思いました。

4)セロファンテープ

tape.jpg

これについてはひとこと言いたい! 長期保存を考えるなら、絶対に使うべきではありません。これは、仮止め、一時的な接着のためのものです。最近はメーカーが「自然に帰る素材です」とエコロジーを意識した宣伝をしているようですが、自然に帰るその前に、くっつけた紙を見るも無惨な状態にしてくれます。

上の写真のように、乾燥してカラカラ、もはや紙と紙をくっつける役目は果たしておらず、それでいて貼られていた部分は裏まで変色して、他の部分より一層劣化しています。
ちなみに、セロファンテープが本格的に普及したのは終戦後間もない1940年代後半。大変便利な文具として広く利用され今日に至りますが、まさかこんな欠点があろうとは当時は誰も気づかなかったのでしょう。私の経験では、長期保存を考えた場合の紙と紙との接着には、日本古来(?)のヤマト糊なんかが一番いいように思います。

以上、いろいろと見て来ましたが、クリップにしろセロファンテープにしろ、その時に手軽で便利だから使うだけで、いちいち何十年も先のことまで考えて事務作業をする人などいませんから、今さらどうこう言ってみても仕方ありません。ただ、「アーカイブ」という概念が浸透しつつある今日においては、文書保存の方法について、もっと意識を高めていく必要があると思います。もっとも、これからの時代は文字も画像もすべてがデータ保存で、紙はやがてなくなるという予測もあるようですが…。
たしかにその方が合理的ではあるでしょう。事実、今では原稿用紙に原稿を書く作家はほとんどいなくなっています。しかしそうなると、文学館などで「作家の生原稿」を展示するということも出来なくなるわけで、それはそれで、ひとつの文化の喪失という気がしてなりません。

今回はずいぶん長文になってしまい、更新も遅れてしまいましたことをお詫びいたします。それではまた、来週。
posted by 室長 at 20:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月06日

〈築地小劇場展〉開催中!

tsukiji01.jpg

今回の評伝(第10回)では、関東大震災がきっかけとなって、築地小劇場がスピード開場したことなどを書きました。震災復興のため、5年間の期限つきで建築制限が緩和されたことから、その機に乗じて土方与志が小山内薫に劇場の建設を提案した、というのはわりと有名な話のようですが、私は不覚にも、そのいきさつを最近まで知りませんでした。今回評伝を書くに当たり、青江舜二郎と関わりの深かった築地小劇場のことはきちんと調査しなければ、と思っていたところ、これ以上はないタイミングで、〈築地小劇場展〉が中央区郷土天文館(タイムドーム明石)で開かれることを新聞で知り、早速出かけて行っていろいろな知識を得て来たというわけです。舞台裏を明かしてしまえば、結構追いまくられるように資料収集をしているのです。

さて、この展覧会、入場無料というから、割とこじんまりしたものをイメージしていたのですが、これが予想以上のボリュームで、当時のポスターやプログラム、舞台写真、そして舞台装置の模型などがかなりの点数展示されています。展示の責任者である野口孝一さんにお話をうかがったところ、展示物の多くは、よそから借りてきたのではなく、中央区が地道に収集した収蔵品とのこと。地域の歴史をきちんと継承していこうとする意気込みが感じられ、好ましく思いました。
そしてもうひとつの収穫だったのは、何と青江舜二郎作「河口」の舞台模型(1940年5月再演時のもの)が展示されていたこと。これは、装置を担当した吉田謙吉のご家族からお借りした、今回の展示では少数派に属する非収蔵品だそうです。

ほかにも連載本文で紹介した、小山内から土方への書簡など、往時をしのぶ材料には事欠かない展覧会ですが、残念ながら一般のお客さんの姿は多いとはいえず、実に「もったいない」気がしました。7月12日までやっていますので、東京近郊の方は、是非ご覧になって欲しいと思います(オールカラーのA4版パンフレットがただでもらえるのもびっくり!)。

タイムドーム明石第7回特別展「築地小劇場展」


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日比谷線築地駅からすぐのところにある、築地小劇場跡の碑
posted by 室長 at 07:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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