2009年07月25日

100年に1度と言うけれど…

今回の連載では、青江が大学を卒業した昭和4(1929)年の出来事などを書きました。本文にも書いたように、世界恐慌が起き、そのあおりで日本でも数十万人という人間が職を失った年です。この不景気が引き金のひとつとなって、日本は泥沼の15年戦争へと歩みを進めていくことになります。

最近やたらと「100年に1度の不況」というフレーズを見聞きしますが、日本が前回大不況に見舞われたのはこの1929年前後のことであり、今から80年前です。逆に、今からちょうど100年前は1909年で、そのころの日本は日清、日露戦争での勝利を背景に朝鮮半島や満洲などの植民地に積極的に進出、満鉄などの国策会社を次々打ち立てていましたから、決して景気は悪くありませんでした。

「80年に1度」よりは「100年に1度」の方が語呂がいいからそういう表現を使っているのかも知れませんが、20年の開きはかなり大きいように思います。新聞やテレビといったメディアが、安易に「100年に1度」というフレーズを決まり文句のように使うのは、歴史認識を誤らせる元になるのではないかと、少なからず気にかかってしまうのですが…。
posted by 室長 at 10:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月18日

10〜15回分をアップしました

明日からまたしばらく関東地方を離れるため、少し早いですが、先月分の連載画像をアップしておきます。魁新報の方から、「まるまる1ヵ月遅れにしなくてもいいですよ」とのお達しがあったので、先週掲載の分までまとめて公開します。

異端の劇作家 青江舜二郎

10 築地小劇場(6/6)
11 『新思潮』同人(6/13)
12 「火」の誕生(6/20)
13 生涯の師(6/27)
14 ふたつの死(7/4)
15 水のほとり(7/11)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 18:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

運命のわかれ目

評伝16回めは「小山内薫逝去」。本文にも書いたとおり、小山内と青江とはわずか2年弱の、大変短い師弟関係でした。
青江の随想によると、当時著名な国語学者だった上田万年の娘・文子(後の円地文子)の「晩春騒夜」と青江の戯曲「ねむいのは春のせいだよ」の2本が、築地小劇場の1928年12月公演の候補作となり、そのどちらを上演するべきか、築地内部でかなり意見の対立があったようです。最終的には上田万年の顔で動員が見込める「晩春騒夜」に決まり、そしてその慰労会の席で小山内は心臓発作を起こして倒れ、急逝してしまいます。
「もしも自分の戯曲の方が選ばれていたら、慰労会なども行われず、小山内先生も死なずにすんだのではないか」と青江は考えたかも知れません。なお、築地小劇場および小山内に関する何冊かの文献を見る限り、慰労会は上田文子の招待と書かれているものが大半ですが、当時の文子がまだ23歳であったことを考えると、一席を設けたスポンサーは父親の万年であると考えるのが自然でしょう。とにもかくにも、こうして青江の戯曲は築地の舞台にかかることもなく、その上、最愛の師まで失うという憂き身にあうことになるのです。青江にとって、まさに大きな運命のわかれ目でした。
posted by 室長 at 14:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月17日

秋田日記 2009年初夏

7月11日から14日まで、秋田に行ってまいりました。遅ればせながら、日記風に行程をご紹介いたします。


2009年7月11日(土)
13:30、JAL1263便で秋田空港着。きわめて時間どおりで感動する。天気が心配だったが、昨日の大雨がうそのようなおだやかな空模様であった。

秋田市街に移動し、一度荷物をホテルに置いて、15:00すぎ、あきた文学資料館へ。現在行われている企画展[秋田の歌人 石田玲水]を見る。秋には同館で青江の資料展示が予定されているので、そのための参考になればという意味合いもあった。思いのほか目を楽しませる展示になっている。

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「3面ある壁面に、何をどう飾るのかがポイントになりますね。一度ざっと配置してみてから、少しずつ修正していきます」と同館の展示担当者K氏。

17:30、秋田魁新報文化部を訪問。連載の担当者である部長代理のG氏、同じ文化部のM氏、そして地方連絡部長のT氏らと久しぶりに顔を合わせ歓談。

2009年7月12日(日)
10:30、新屋に大嶋本家の八代目・大嶋健太郎氏を訪ねる。現代の感覚では少しわかりにくいが、青江の生家である茶町大嶋家(大嶋衛生堂)は、この大嶋本家の第一分家なのである。連載の中でも少し触れたように、この大嶋本家は青江が生まれたころは、新屋の町の税金の半分を一軒で負担するほどの資産家であったという。戦後の農地改革で今ではその面影はないが、現在でも健太郎氏はそのころと同じ場所に住居を構えておられ、庭には明治後期〜大正初期のものと思われる立派な蔵も残っている。

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私は健太郎氏とはこれが初対面だったが、健太郎氏の父上の昌一郎氏は青江より3歳年下で、同じ秋田中学だったこともあり、かなり親しく付き合いがあったという。青江の評伝連載がきっかけになり、これまで縁が遠かった親戚の方とお目にかかるというのも、今回の大きな収穫かも知れない。「連載は毎回読んでいますよ」とおっしゃって下さったのも嬉しかった。

健太郎氏のご自宅からさほど遠くないところに、青江が昔、毎年のように海水浴に訪れたという新屋の海岸がある。現在は新屋海浜公園と名を変えているものの、見た目はなだらかに開けた白砂の海岸だった。ただペットボトルや空き缶などの漂流物が山積し、景観を害しているのが残念である。

昼すぎ、秋田市街に戻り、国の有形文化財に登録されている旧大島商会に一瞬立ち寄る。明治34(1901)年に建てられた秋田市内最古の煉瓦造り建築で、当時はかなりハイカラな百貨店であった。創設者の大嶋勘六(仙北郡から大嶋本家に婿入り)は、一時大嶋衛生堂の後見をしていたこともある人物で、午前中にお会いした健太郎氏の義理の大伯父に当たる。大嶋家の過去の業績がこういう形で残っているのはやはり感慨深い(現在は貸店舗となりフラワーショップが営業中)。

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つづいて東海林太郎音楽館を見学。東海林太郎は大嶋家と親戚関係はないが、青江の母と東海林の母とが土崎の小学校の同級生で、結婚後も親しく付き合いがあったという。また青江の姉が嫁いだ中村八郎と東海林が中学の同級生だったという縁もあり、昭和47(1972)年に東海林が逝去した際には、青江は魁新報に「意思の強さ」と題した追悼文を書いている。人が多すぎてすべてが薄い東京と違い、「地域」での暮らしでは人間同士のつながりがずいぶんと濃密だ。

そして竿灯の実演をやっているという民族芸能伝承館(ねぶり流し館)へ。頭や腰に竿を載せ、バランスを取る絶妙の技には感心したが、やはり昼間の室内では物足りなさも残る。今年は日程的に難しいが、いつか本物を堪能してみたいと思う。

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昼食をはさんで14:50〜16:40、秋田市制120周年記念式典を観覧。その歴史を顧みれば、明治時代にすでに鉄道が通り、上水道が整備されていたのだから秋田というのもなかなかの文化都市である。開場の5分前に秋田市文化会館大ホールに到着すると、千人を超える入場者で会場はすでにほぼ満員だった。
秋田市ゆかりの作家や詩人の文章を、女優の浅利香津代氏が朗読するというのが式典のメインプログラムになっていて、石川達三や伊藤永之介らと並んで、青江の随想もその中で紹介される。

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その後、日没まで千秋公園を散策。市街が一望できるという久保田城御隅櫓はすでに閉まっていたのが残念。

2009年7月13日(月)
秋田市を離れ、自然の豊かな象潟周辺を1日かけて散策。しかしこういう時に限って絵に描いたような荒天で、改めて自分の雨男ぶりが証明される。海はたけり狂い、鳥海山は影も形も見えず、どうにかお目当ての獅子ヶ鼻湿原の入口までたどりついたものの、足場の悪さに中に入るのは断念、近くの奈曽の滝だけを見て引き上げる。

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夜、魁新報文化部のG氏とホテルの近くで軽く飲む。22:00で閉店というのはいいとして、22時を少し過ぎたと思ったら「すみませんがそろそろ…」と追い出しにかかるというのは早過ぎないか。30分程度は酔客をそのまま「放置」するのが飲み屋の良心だろう。のんびりした人間が多いと思っていた秋田で、あのせわしい客あしらいは正直意外であった。

2009年7月14日(火)
いつの間にやら最終日。ホテルをチェックアウトし、10:00、大町にある旭北地区コミュニティセンターに中谷久右衛門氏を訪問。中谷氏は、少し前までは「中谷久之助」氏で、その名前で連載の3回目にも登場している大嶋衛生堂の「お隣さん」である。このたび、先祖代々の名前を伝えていこうと、九代目「久左衛門」を襲名したとのこと。もっとも現代では、歌舞伎役者でもない限り「襲名」とは言わず「改名」と言うそうだ。「祖先からの名前を後世に遺すのもひとつの文化の継承である」と70歳を過ぎて気がついたのだという。そういう理由での「改名」を役所が認めるということを今回初めて知った。なお、現在更地になっている大嶋衛生堂の跡地は相変わらず買い手がつかないらしく、前回よりも「売物件」の看板が大きくなっていたのには苦笑を禁じ得なかった。しかしこの不景気では、このまま何年も過ぎてしまうのだろうか。

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12:00、秋田文学界ではその人ありと知られた井上隆明氏と昼食。おとといの市制120周年記念式典の朗読作品の監修もされている。青江の評伝も欠かさず読んでおられ、その感想をうかがいながらの午後のひとときとなった。また、魁新報の文化部長時代の武勇談をいろいろとうかがえたのも収穫だった。

その後、平野政吉美術館で藤田嗣治の「秋田の行事」などを見て、16:00、秋田県立図書館へ。文学資料館の担当の方と9月からの青江の資料展示についての細かい打ち合わせ。18:30、秋田空港に移動し、19:55、JAL1268便で東京戻り。


というわけで、なかなか盛りだくさんの4日間でありました。
posted by 室長 at 15:15| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月10日

「水のほとり」と秋田市の水害

明日からしばらく秋田に行く予定なので、早めにブログを更新しておきます。ノートPCや携帯を使って、出先からブログを更新するということを、多くの方が普通にやっているようですが、私はどういうわけか、自宅PCからでないと、この手の作業がこなせないのです。

今回は仏教説話を元に構想された戯曲「水のほとり」のことを中心に書きました。これについては、連載でも少し触れましたが、青江舜二郎生誕百年記念作品として2004年にボイスドラマ化したということもあり、私にとっても思い入れのある一作です。出演はコーサラ国の流離王に劇団四季の日下武史さん、釈迦族の摩訶南尊者に柳澤愼一さん、一族の長老に川久保潔さんという面々。

■ここをクリックすると、ドラマの一部が聴けます(mp3、約2分)

日下さんは以前「火星のわが家」という映画に出てもらったことがあるので、その縁で出演をお願いしたのですが、実はもうひとつ、若き日の日下さんが雑誌の劇評で青江に好意的に取り上げられたことがあり、それを今でも嬉しく思っている、という話を聞いたのが大きなポイントになっています。青江が小山内薫に師事した経緯もそうですが、やはり若い時にその道の先輩から評価されたという誇らしい体験は、生涯を貫くものになるようです。
柳澤さんとはこれが初めてのお仕事でしたが、俳優、歌手のかたわら、何十年も目立たないボランティア活動に従事してきたその生き方が、一族のために自ら命を落す尊者に通じるものを感じたため、こちらから是非にとお願いしました。「奥さまは魔女」のダーリンの吹替えでもおなじみで、私があの声のファンだったというのもあります。
そして川久保さんは、青江の鎌倉アカデミア演劇科での教え子で、この道50年のベテラン声優。私のデビュー作映画「カナカナ」ではヒロインの父親を演じてもらっています。青江が存命のころは、何度もわが家に遊びにいらしたこともあり、こういう記念作品には欠かせない存在です(先日も鎌倉アカデミアを伝える会で青江の随想の朗読をしていただきました)。ちなみに、川久保さんと柳澤さんとはあの「ひょっこりひょうたん島」(リメイク版)でも共演されており(川久保さんがヤッホーで柳澤さんがトウヘンボク)、収録の合間には、二人で楽しそうに談笑していらっしゃいました。

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収録を終えて。前列左から川久保、日下、柳澤の三氏(2004年12月)

さて、これをアップしたらそろそろ旅支度を、と思いつつネットのニュースを見たら、秋田、何だかえらいことになっています。昨日からの豪雨のため、秋田市の一部に避難勧告が出されたとのこと。尊者が水に沈んで息絶える「水のほとり」の話を書いたと思ったら、秋田市がこんなことに…。避難地域にお住まいの方々のご無事をお祈りいたします。

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posted by 室長 at 14:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月04日

アナンガ・ランガの牝鹿

評伝14回めでは、「ふたつの死」と題して、芥川龍之介の自殺と秋田中学時代からの親友だった佐藤三郎の病死、それに遭遇した1927年夏の青江の心象風景などを書きました。とりわけ竹馬の友だった佐藤との別れは、そのころ自殺を考えていた青江に何か訴えかけるものがあったと思います。

さて、本文には字数の関係で書けませんでしたが、実は佐藤三郎は、第九次『新思潮』の同人でもありました。彼は東大生ではなく、また肺病のため秋田の実家で何年も療養しているというハンディがありましたが、青江の推薦もあって同人に加わり、大佛三郎のペンネームで「遺産」という戯曲を発表しています。そして、彼が亡くなったわずか6日後、読売新聞の文芸欄に、懸賞短編小説(選者・広津和郎)の一等当選作品として、「アナンガ・ランガの牝鹿」という作品が掲載されました。これこそ佐藤三郎の遺作でした。
 この作品はちょうどいまの若者のそれとしてそのまま通用するほど新鮮である。昭和のはじめはようやく文壇に新感覚派≠ェ生れた頃で横光、川端、片岡、中河などがたいへん無理をしていろいろと文章をこねまわしていた。それらは今ではもはや読むには堪えないが、坊っちゃ(佐藤三郎の愛称)のほうはこの通りだ。

上の文は、青江が戦後かなり経ってから秋田の文芸同人誌『叢園』に寄稿した小文「坊っちゃの遺作」からの抜粋で、「アナンガ・ランガの牝鹿」全文も掲載されています。

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 或る春の一夜、彼女は突然紛失して仕舞った。その前夜、彼女は丸々と膏(あぶら)ののった廿三歳の腿のふくらみをきゅっと引きしめて云ったのだった。
『あたし達別れましょうよ』それから臆面もなく、『このままじゃ二人とも餓死だわ』

作品はそんな風に始まります。失踪した女を捜す男が、いつしか不思議な食堂で給仕として働くようになり、そこで女と思いがけない形の再会を果たすまでが、夢とも現実ともつかない世界の中で描かれます。青江が指摘するように、この幻想小説は、無理に文章をこねくり回したような痕跡はなく、もっと体感的なものが全編を覆っています。おそらく、長く病床にあって、高熱にうかされ悪夢を見ることも多かった佐藤の脳内で、おのずから発生したイメージをすくいとったのがこの短編だったのではないのでしょうか。佐藤三郎は23歳という短い生涯の中で、こうして、借り物ではない自分だけの作品を遺して旅立ったのです。
posted by 室長 at 12:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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