2009年08月29日

戦前のプログラムはどこに?

本日掲載分の評伝タイトルは「劇作家デビュー」。
昭和10(1935)年の暮れも押し迫った12月26〜29日、帝国ホテル演芸場において、石川達三原作の「蒼氓」が上演されました。新劇座の第13回公演で、脚色・青江舜二郎、演出・金子洋文。これが青江の、東京での劇作家としてのデビューです(大阪でのデビューはこれより5年早い1930年4月の浪花座における「人気投票」)。

engeijo.jpg 当時の帝国ホテル演芸場

「蒼氓」のスタッフの顔ぶれを見ると、原作、脚色、演出の3人がそろって秋田人。特に金子とは、これまでのつながりもあり、同郷のよしみという感じを強く受けますが、実際には連載にも書いたように、青江の抜擢は久保田万太郎の推薦によるところが大きいようで、これ以降、金子と青江が仕事でコンビを組むことはありませんでした。このあたりは、作家としての「資質の違い」によるものだったかも知れません。

なお、今回の執筆に当たり、当時のプログラム(筋書本)を探したのですが、あいにく自宅にはなく、早稲田大学演劇博物館、松竹大谷図書館にも出向いてみましたが、どちらも空振り。この二箇所で収蔵がないとなると、私としてはお手上げです。神保町あたりの古書店を地道に回ってみれば、もしかしたら見つかるのかも知れませんが…。
これ以外にも、さきに挙げた1930年4月の浪花座や、1936年8月の新宿第一劇場など、青江の作品が上演されたというデータは残っているものの、プログラムが確認できないものが、特に戦前はいくつもあり、非常に残念な思いです。以下に行方不明のものを挙げておきますので、万が一「あ、これは持ってるぞ」とか「持ってはいないけど、ある場所なら知っている」という奇特な方がいらっしゃいましたら、是非こちらまでご一報いただければと思います。

1930年4月 第一劇場 淀君/色気ばかりは別物だ/疵高倉/人気投票 於・大阪浪花座
1935年12月 新劇座 蒼氓/初旅 於・帝国ホテル演芸場
1936年6月 創作座 避暑地です/山鳩 於・飛行館
1936年8月 新劇座 鬼怒子/弥太五郎源七/多情仏心 於・新宿第一劇場
1936年11月 創作座 大地 於・飛行館
(青江の作品は青色で示しました)
posted by 室長 at 09:24| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月21日

19、20回分をアップしました

ここ2回分の連載画像をアップしました。
今週はブログの方は夏休みとさせていただきます。ご了承下さい。
異端の劇作家 青江舜二郎

19 香川県庁赴任(8/8)
20 高松での日々(8/15)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 18:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月14日

「満洲国」視察の資料

来月からの文学資料館での企画展示に向け、資料の選別、荷作り、発送などの作業にここ数日追われています。
青江の書斎だった実家の6畳間は、数年前からエアコンが壊れており、今の季節は部屋に2、3分いるだけで体じゅうから汗が吹き出してきます。当然というべきか、まったく能率はあがらず、液体ばかり飲んでバテバテです。1日も早く夏が終ってほしいと、祈るような思いでいます。

さて、明日掲載の評伝第20回では、青江が文部省から派遣され、建国間もない「満洲国」を視察したことなどを書き、その時のファイルの写真も載せる予定です(下の写真は別バージョン)。

file.jpg

これは、訪ねた先々でもらったパンフレットや絵葉書などを貼り付け、その土地や施設の印象なども記してある、かなりぶ厚いファイルです。どれぐらい稀少価値があるものかはわかりませんが、日本の満洲統治時代のことを研究している人にとっては、かなり食指が動く資料ではなかろうかと思っています。

折りしも今日(8/14)の東京新聞には、新感覚派の作家・横光利一(1898〜1947)が、旧満洲で発行されていた「芸文」という日本語総合文化雑誌に寄稿した随想が発見されたという記事が載っていました。欧米の資本主義経済と比較して、満洲の経済は「よく整頓された知性」でコントロールされているなどとプラスの評価を下しているそうです。発表されたのが敗戦の前年であることを考えると、いろいろと感慨深いものがありますが、台湾にしろ満洲にしろ、あのころの植民地は、文化的にも経済的にも、日本本土よりもはるかに洗練されていたというのは事実であろうと思います。植民地政策というとすぐに日本軍の現地住民への蛮行ばかりが喧伝されますが、物事はそれほど単純ではないはずです。「白か黒か」ではない、もっと緻密で重層的な歴史の研究が進むことを望みます。
posted by 室長 at 20:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月08日

16〜18回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

16 小山内薫逝去(7/18)
17 大学は出たけれど(7/25)
18 白蛇悲経(8/1)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 14:09| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

蝶ネクタイの大嶋主事

今回の評伝(第19回)では、青江が一家の生活のため東京を離れ、香川県庁に社会教育主事として赴任するあたりの事情を書きました。下の写真は、着任してほぼ1カ月後(1931年7月10日)に撮影されたものです。前列中央が青江で、蝶ネクタイがなかなかお洒落です。なお、公務員という立場上、サインは当然のことながら本名の大嶋長三郎(C.Oshima)になっています。

kagawa.jpg

最初はこれを新聞に載せようと考えたのですが、同時期に撮影されたらしいもう1枚の集合写真の方が、青江の疎外感や居心地の悪さが漂っているように思えたため、そちらを最終的に掲載したというわけです。

さて、巷ではお盆の帰省ラッシュも始まったようですので、このブログも今週と来週は省力モードとさせていただきたいと思います。
どなた様もよい夏休みを。
posted by 室長 at 11:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月01日

青江追放の犯人は?

今回の評伝では、小山内薫に続いて木村泰賢までもが急逝、おまけに実家の衛生堂が倒産し、青江がいよいよ追いつめられていく過程を書きました。短期間にあまりにも不幸な出来事が続き、書いているこちらも気が重いです。

小山内と木村は、かたや演劇、かたや印度哲学と分野こそ違いながら、ともに青江の才能を認め、常にあたたかく目をかけてくれました。実の父と早くに死に別れた青江は、この二人の恩師に「慈父」のイメージを抱いていたのでしょう。しかし、彼らもまた矢継ぎ早に世を去ってしまいました。どうも青江は「父親」というものと縁が薄いようです。
そして青江自身も、後に家庭を持ち、何人かの子どもの父親となりながら、その役目をまっとうする(=子どもが成人するまで責任を持って養育する)ことが十分にはできませんでした。もちろん、家庭が崩壊するに至った原因は単純なものではないと思いますが、青江がその成長過程において、「健全な父親のモデル」というものを持てなかったことが、大きく影響しているのではないかと私は思っています。その結果、青江の子どもたちもまた、「父親」との縁がきわめて薄い人間になってしまいました。因果はめぐるとはよく言ったものです。

さて、小山内薫の死によって築地小劇場との縁が切れ、今回また木村泰賢の死によって東大印度哲学科との縁を失った青江ですが、この2つのケースはパターンはよく似ているものの、今回はいささか疑問に思える点があります。築地小劇場入団に関しては、小山内から青江への、いわば口約束だったので、これはお流れになっても仕方ありません。しかし大学院の方は、木村の個人的な温情だったにせよ、大学に残って院生として研究を続けていたわけですから、それが、徴兵されて東京を離れた9ヵ月の間に除籍になっていたとはどうにも納得がいきません。当時の大学院というのはそんなにずさんな体制だったのでしょうか。

ここで、ひとつ気になることがあります。木村の後任として東北帝大からやってきた後任のU教授は、実は木村泰賢と東京帝大の同級で、つねに成績のトップを争うライバル同士だったというのです。しかし卒論などでも木村が主席でUは次席、Uがその後順調に出世したのは、木村が若くして亡くなったおかげだといわれています。また、研究に臨む態度も正反対で、青江はその著書『竜の星座 内藤湖南のアジア的生涯』に、
ドイツのオルデンベルヒ博士の学統をひく木村博士のそれはまさしく(内藤)湖南的で、U博士は丹念な文書の考証を主とする訓詁派の巨頭とされていたのである。

と書いています。内藤湖南や木村が、直感的に物事の本質をつかみ、歴史を常に生き生きと、現在との関わりの中でとらえようとするのに対して、訓詁派のUは、過去は過去として現実とは切り離し、象牙の塔にこもって黙々と文献に当たるタイプの学者だったようです。その優劣をここでうんぬんする気はありませんが、学者というのはリベラルなようでいて、実は自分の学派以外にはきわめて偏狭で排外的な立場を取るものであることを考えると、青江追放の張本人は、このUであっただろうというのが私の推理です。心情的にも、木村が青江を大変可愛がっていたという話を聞けば聞くほど、Uはそんな男を研究室に残しておきたくなかったのでしょう。そこで本人の長期不在をいいことに、青江の籍を大学院から抹消した…。当時の主任教授というのは、口頭試問で酷評された青江の論文が木村のひと声で通過と決まった話でもわかるように、その学科の中では大変な権力を持っていたのです。

もちろん、以上のことはあくまで推理なので、新聞紙上には書きませんでした。しかし、私の責任において運営しているこのブログでは、時に私見をはさむことも許されると思い、ここに記した次第です。

今回で「東京編」はひとまず終了、次週からは「四国編」がスタートします。
posted by 室長 at 11:29| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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