2009年09月28日

伊勢湾台風に思う

一昨日(9/26)、5,000人を超す死者・行方不明者を出した伊勢湾台風から満50年を迎えました。そのころ私はまだ生まれていませんでしたが、中学生のころ、ある連続ドラマのオープニングで凄惨な被災地の映像を何度となく目にし、自然災害の容赦のなさに身震いがしたものです。
その伊勢湾台風についての所感を、青江が雑誌『若い芸術』に書き記していますので、ここに転載します。

人こそは城

 台風十五号の被害が大きかったことへのきびしい批判がジャーナリズムをにぎわしている。戦後いちはやく思い切った都市計画を断行し、新しい名古屋市を築いた市長の識見と手腕への賞讃が、新名古屋城の出現と共にピークに達しようとしていた矢先におこった災害であった。その結果、中心部の繁華街に対する心づかいの何十分の一も、埋立地の保全には払われていなかったことがあきらかになり、市長の名声は一瞬にしてガタ落ちとなってしまった。

 たしかにこれは市長の責任であろう。しかし、市長だけの責任ではない。なぜなら資本主義社会というものは本質的にこのようなものであるからだ。まず特権階級の利益と繁栄、そしておこぼれがあれば、勤労階級におよぼしてゆく……こうした社会組織と思想が根底になっている限り、国民のためにどのような社会保障制度が設けられたとしても、限度がある。
[全文を読む]
posted by 室長 at 16:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月26日

折り返し点到達

kako_butai.jpg 「河口」の一場面(1939年)

評伝では本日(9/26)まで3回に渡って戯曲「河口」について書いてきました。やはり代表作の1本ですし、この作品は成り立ちから初演に至るまで、本当にエピソードが多いのです。先週分で書いたように、本番直前に俳優が病気で3人も入れ替わったなんていうのも特筆すべき出来事ですし(お祓いはしていなかったのでしょうか?)、検閲によって内容がかなり改変されたこと、上演前に演出家と装置家が青江の案内で秋田の土崎港を視察したことなども、きちんと書き記しておくべきだと思い、それやこれやで当初は2回の予定が3回になってしまいました。本日分では、「河口」のモデルになった野口家のその後を、劇作家の野口達二(当主・野口銀平の孫)の文章を引きながら紹介しました。

さて、「河口」が1939年の初演に当たって検閲を受け、かなり書き換えがなされたことは上にも書いたとおりですが、中でも頭を抱えてしまうのが、最終場面の加筆です。もともとの戯曲では老当主の富蔵が、「頼みだった長男の娘が(東京に出奔して)いなくなってしまったのに、今さら石油が湧いて出たってしょうがない。もう面倒なことはしょわせないでくれ」とすすり泣く場面で作品は幕を下ろします。時代にあらがえず滅びて行く旧家の姿を詠嘆的に描いた、まさにチェーホフ的なエンディングです。ところが初演の舞台では、物語はここでは終わりません。富蔵のすすり泣きのあと、富蔵の次女の娘の歌声がどこからか聞こえてきて、「そうだ、ここにも跡取りがいるじゃないか! まだまだ起死回生のチャンスはある!」と一同が急に力強く立ち上がるところが描かれ、「再生」を予感させる大団円となっています。青江が意図したのとは180度違う幕切れです。

日中戦争の真っ只中という当時の社会情勢を考えると、敗北感よりは、何か未来への希望が感じられるラストの方が好まれたであろうことは想像できますが、この「取ってつけた」ようなエンディングは、それまで作者が200枚以上の原稿用紙を費やして旧家の没落を丹念に描いてきたのに、それをわずか数枚でぶち壊したような印象を受けます。私は「河口」は『三田文学』に発表された書き下ろし版しか読んでいなかったため、今回評伝執筆のため、改訂されたものを読んで絶句しました。エンディングというのは、その作品の色彩を最終的に決定づける大切な部分で、このような改変が外圧によってなされるなど、許されるべきではありません。

ただ、それくらい大切な部分であるが故に、エンディングというのは議論の対象になることも多く、それは今日においても何ら変わりません。たとえば、私なども映像作品を作っている立場ですが、シナリオを書く時には、「あまりにも救いのないラストにはしない」という不文律が頭にあったりします。「主人公が絶望したままで物語が終わらないように。たとえ絶望の淵に沈んでも、どこかに希望が感じられるラストにすること」。これはおそらく、作品にカタルシス(精神浄化)を求める観客への、作り手のマナーなのではないかと思います。特に今のような不安要素の多い時代にあっては、それは意識せざるを得ないところでしょう。私がたまに教えに行っている映像製作のワークショップでシナリオの講評をする時にも、「このままではラストが暗すぎる。もう少し救いを持たせて」などとアドバイスをすることが少なくないのです。それを考えると、当時の「河口」のラストの改変も、観客に絶望ではなく希望を提示したという点では、それなりの意味を持っていたと言えそうです。

しかし、それならすべての物語がハッピーエンドであるべきかというとそんなことはもちろんなく、「ハムレット」にしろ「幸福な王子」にしろ「マッチ売りの少女」にしろ、古典や名作童話にもアンハッピーな結末は少なくありません。悲劇的な終わり方が観客なり読者なりの紅涙を絞り、それがカタルシスを生み出すことだってあるのです。ここで長々と戯曲や小説の幕切れのあり方について語っても仕方がないのでこのくらいにしますが、要は、個々の作品には、それぞれふさわしいエンディングというものがあるということです。そしてそれはあくまでも作者が主体的に選択すべきであり、「河口」は初演においてそれが叶わなかったという点において、作者には悔いの残る作品であったと思われます。終戦から10年を経た1955年4月に「河口」は第三劇場によって再演され、その時初めて、元のままの台本での上演がなされます。青江はここでやっと「作者としてひとつのけじめがついた」と感じたに違いありません。

今回で評伝連載も26回を数え、ようやく全体の半分、折り返し点まで到達しました。連載当初は、26回で終戦を迎えるところまで書き進める計画だったのですが、2回のはずの「河口」が3回になったことでもわかるように、いろいろと書いておきたいことが多く、少々遅れ気味です。ついでに言うなら、掲載されている写真が全体的に小さいのは、毎回字数が微妙にオーバーしているためです。どこかでペースを調整していく必要があるな、と内心冷や汗をかきつつ、次週から後半戦に突入です。
posted by 室長 at 17:51| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月21日

「異端の劇作家 青江舜二郎 ―その生涯と作品― 」展示開始

090917_01.jpg

9月17日、あきた文学資料館での特別展示「異端の劇作家青江舜二郎―その生涯と作品―」が始まりました。無事にこの日を迎えることができてほっとしています。
何十年もの間、無造作に押入れに積み上げられていた資料が、こうしてガラスケースに収まり、年代別に並べられているのを見ると、とても同じものとは思えません。永い眠りから覚め、新たな命が与えられたようです(陳腐なたとえですが、灰かぶりがシンデレラに生まれ変わったとでも言いましょうか)。かなり雑然とした状態でお送りした資料を、このように素敵にお色直しして下さった文学資料館スタッフの皆様には、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

090917_04.jpg 090917_03.jpg

090917_02.jpg 090917_05.jpg

初日の展示を見たあとは「河口」の舞台となった土崎に向かい、ポートタワー・セリオンから秋田の町並みや日本海をながめました。天気も上々で、太平山もよく見えます。ようやく、大きなプロジェクトがひとつ、自分の手元を離れたような解放感にひたりました。

090917_06.jpg 090917_07.jpg

「故郷に錦を飾る」というとずいぶん古臭い表現のようですが、今回の展示で青江はようやく、生涯をかけて生み出した数々の作品を手みやげに、故郷に錦を飾ることができたように思われます。家族としては、いささかの感慨を覚えないわけにはいきません。この展示が一人でも多くの方のお目にとまることを切に願っています。

秋田魁新報「劇作家・青江をしのぶ 初公開の写真など展示」(2009年9月18日付)


平成21年度 あきた文学資料館 第2回特別展示
「異端の劇作家 青江舜二郎―その生涯と作品―」

2009年9月17日(木)〜12月27日(日)
10:00〜16:00(月曜日は休館)
入場無料

会場:あきた文学資料館
(JR線秋田駅西口下車徒歩約10分)
〒010-0001
秋田市中通6丁目6−10
TEL:018-884-7760
FAX:018-884-7761

あきた文学資料館公式サイト
posted by 室長 at 13:30| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月14日

21〜23回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

21 再出発(8/22)
22 劇作家デビュー(8/29)
23 卒論盗用事件(9/5)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 18:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月13日

特別展示まであと4日!

今回の評伝は「河口」です。青江の戦前の代表戯曲とされる「河口」については書こうと思っていることが多く(シャレではありません)、1回ではすまないので、今回はとりあえず@としました。

さらに、来週の17日からは、ついに〈あきた文学資料館〉での特別展示が始まります(12月27日まで)。今月の初めに秋田に行き、展示室の様子を見せていただいたのですが、すでに資料の多くがガラスケースに仮置きされており、写真パネルもあらかた出来上がって、予想以上に見どころの多い展示になりそうな気配でした。

tenji02.jpg tenji01.jpg

もちろん、連載の巻末にも書いたとおり「河口」関連の物品もかなり展示されます。今からちょうど70年前の1939年に築地小劇場で初演された際、出演者たちがサインを寄せ書きした当日パンフレットは今回が初公開、おそらくこの世にひとつだけの物ではないでしょうか。

kako_yosegaki.jpg

出演者の一覧を見ると、さすがに存命の方は少ないようですが、特撮ファンの私としては、「マグマ大使」のアースでおなじみの清水元と、「ウルトラQ」の関デスクをやった田島義文が共演しているという事実に「お!」と思わず身を乗り出しました(ちなみに田島氏は現在90歳でご存命の由)。他にも、独特のセリフ回しが印象深い加藤嘉(田宮二郎版「白い巨塔」の大河内教授役)などが出演していました。

2shot.jpg

なお、上の写真も本邦初公開、1939年1月、厳寒の土崎港を訪ねた演出家の北村喜八と、当時秋田連隊に入隊中だった青江の貴重なツーショットです。しかし、この写真、何とも不思議な雰囲気を醸しており、見るたびに吹き出しそうになって困ります。足を半端に開いた二人のポーズも変ですし、青江の顔も、何だか宇宙人が化けたみたいで…(そう思うのは私だけでしょうか)。以上のような主観的な理由で、この写真の展示は見送ることにしました。

いずれにせよ、秋田出身の劇作家が秋田を舞台にして書いた戯曲の関連資料が、秋田で展示されるというのは実に感慨深いものがあります。70年ぶりの里帰りといったところでしょうか。

あきた文学資料館ホームページ
posted by 室長 at 18:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

「大嶋」か「大島」か?

先週末の9/3〜5は秋田に行っていたため、更新が遅れましたことをお詫びいたします。

さて、今回の評伝「卒論盗用事件」は、相手方がかなり名前の知られた学者で、今日でもその著作や講話のCDが出回っていることもあり、実名を明らかにすることにはいささか抵抗があったのですが、このあとの久保田万太郎との著作権侵害事件も実名で書くことを決めており、今回だけ匿名というのも統一性がないだろうということで、編集部とも相談の上、実名記載としました。ことの次第は、是非とも本文を読んでいただければと思います。

それにしても、仏の道を説く人物が、他人の論文を盗用して知らん顔をしていた、しかも自分の手を汚すことを厭い、ゴーストライターに論文を手渡しして、「ここから抜き書きをしなさい」と指示していていた、その人間性には、はなはだ首を傾げざるを得ません。しかし、このような事件が発覚しても、信者は彼を見捨てず、彼の「真理運動」も戦後まで命脈を保つのですから、人間というのは、一度信じたものをなかなか手放せない生き物なのかも知れません。

さて、今回もうひとつ、非常に悩んだのが青江舜二郎の本名の表記です。「大嶋長三郎」というのが戸籍上の本名で、公式サイトなどでもそれで統一しています。しかし、今回の本文では「大島長三郎」としました。それは何故かと言いますと、当時の新聞記事が以下のようになっているからです。
昭和四年東大文学部印度哲学科卒業、帝国少年団協会主事大島長三郎氏(三三)は、その卒業論文「仏陀時代における仏教と社会との交渉」の一部を「四姓制度に関する一考察」(従来アカデミー派の信じた印度の四姓制度、婆羅門、王族、商人、庶民階級の存在を科学的推論によって覆したもの)の表題下に東大印哲、宗教の機関誌『宗教研究』五月号に載せたところ…

(1936年6月14日 東京朝日新聞)

「真理運動」の総帥友松圓諦氏が少壮学徒大島長三郎氏(三三)の東大卒業論文を剽窃して堂々世に発表したことが明るみに出るや、狼狽した友松氏は十五日大島氏に会見を申込み「大島君の論文の一部を無断借用」したことを認めて陳謝し…

(1936年6月16日 東京朝日新聞)


漢和辞典などで調べると、「」は「」の本字(元々の形の字)、また、「」が正字で「」は異体字、などとあります。最初に「山」と「鳥」を合わせた「」という字があり、それが簡略化されて「」になったわけです。ですから、どちらを使っても間違いではなく、実際、青江の卒業証書などを見てみると、見事に「」と「」が入り混じっています。戦後、当用漢字の普及にともない、画数の多い漢字が使われなくなったように思われがちですが、現実には、大正時代から「」も日常的に使われていたことがわかります(下写真参照)。

shimashima.jpg

だから、「どっちでもいいじゃん」で終わる話ではあるのですが、やはり表記の不統一というのはあまり好ましいものではありません。「大嶋」と「大島」では、目で見て感じる印象も違います。なお、私自身も今では「大嶋」ですが、高校時代までは「大島」でした。青江が亡くなった時に戸籍を改めて見て、「大嶋」が正式の表記であると知ってから変更したのです。似たようなケースとしてわかりやすいのは、ミスターこと長嶋茂雄でしょうか。今では「長嶋」で統一されていますが、現役時代、あるいは最初に監督を務めていたころは「長島」でした。これに関しては「長嶋」か「長島」か?というサイトで詳しく解説されています。

というわけで、本当なら現段階では「大嶋長三郎」で統一したいところなのですが、古い新聞記事の引用を生かすため、今回はあえて「大島長三郎」と記載した次第です。

付記
」と「」の表記については、上に挙げた長嶋茂雄のほかにも気になるケースがあります。それは「高島ファミリー」。父親だけが「高島」で、息子二人は「高嶋」表記なのです。一見不可解ではありますが、芸能人の場合は姓名判断や画数などをかなり気にすることもあるようなので、その辺の事情によるのでしょうか。
posted by 室長 at 12:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。