今回の評伝では、中国大陸に渡る前、青江が故国に残した作品や仕事について書きました。「日本教育紙芝居協会」は、紙芝居の歴史をひもとく時には必ず名前が出てくる団体で、もう少し詳しくその活動について書きたかったのですが、スペースの関係で断念しました。
そして、「一葉舟」ですが、これも「河口」に比べると、ずいぶん簡単にしか触れられませんでした。この作品が花柳章太郎の熱心な要望によって完成に至ったことは書きましたが、花柳が秋田の連隊に青江を訪ねてきた時のこと、原稿を送ったところ、そのお礼にと、彼個人から400円(当時の青江の給料の約半年分)が送られてきたことなどには言及できませんでした。このあたりの、青江と花柳のほのぼのとした交遊エピソードは、青江自身の筆になる「宿縁久保田万太郎」に詳しく書かれています)。
なお、1939年の1月に久保田万太郎と深田久弥が青江を訪ねたことについても「宿縁久保田万太郎」に詳しく描かれていますが、その時の模様をスクープ(?)した秋田魁新報の記事を、この場で紹介しておきます。

二作家きのふ 少尉殿を激励 青江氏と久濶叙す
[既報]石坂洋次郎氏の「若い人」普及版出版記念会に出席すべく、山本改造社長と同行した作家久保田萬太郎、深田久彌両氏は長谷川部隊に天晴「少尉殿」として入隊中の秋田市の人大島長三郎氏、実は青江舜二郎のペンネームを以って創作をもなし殊に演劇に深い関係をもつ同氏を尋ねて激励に。十一日来秋、同夜田中町松華亭で大島氏と久し振りの交友を温めた。久保田氏は羽越線にて冬の日本海岸風情を味わふべく途中象潟辺か、温海へ宿泊の予定で、深田久彌氏は更に県北の雪の八幡岱に赴き二、三日スキーを楽しむべく別々に出発の筈。(右より深田氏、久保田氏、青江少尉)
(「秋田魁新報」1939年1月12日)
青江は風邪を引いたといって演習をさぼり、二人と料亭で酒を飲んだのですが、翌日の新聞にこの記事が載ったため、上官にばれて油を絞られたといいます。この1939年1月は、2日から4日まで「河口」の演出家の北村喜八と装置の吉田謙吉が秋田を訪ねていますから、青江にとっては千客万来の新年だったようです。と同時に、親しい人がこれだけ次々訪ねてくるということは、いよいよ出征も近いのだ、と青江自身も感じていたかも知れません。
評伝も次週から、舞台は中国大陸に移ります。