2009年10月31日

気分は一気に現代へ

ブログの更新が滞っていて申し訳ありません。
先週分で「終戦」を、本日掲載の分で戦地からの「帰還」を書きました。本文中でも紹介した「ああ、やっと終わった」という青江の感慨は、そのままこちらにも当てはまります。体験していない戦争のことを書くのは予想以上に困難な作業で、終わってくれてほっとしたというのが正直なところです。
しかしその一方、戦争中の出来事は、「歴史上のこと」という認識なので距離を置いて書くことが可能なのですが、1946年以降は、私の感覚ではいわば「ひと続き」で、そのまま現代へと直結しています(社会体制の大きな変化がないためだと思われます)。一気に身近かな、生々しいエピソードを書かなくてはならず、別な意味での難しさを感じています。このブログでサイドストーリーを紹介するというのも、これからは控え目になっていくかも知れません。
ともあれ、民主化した日本で青江は果たしてどのように生きていくのか? 今後ともどうぞご愛読をお願いいたします。

なお、あさって(11/2)の15時から、あきた文学資料館で青江についての講演を行います。お近くの方は、是非おいで下さい。

■講演の詳細:平成21年度秋田ふるさとセミナー

posted by 室長 at 16:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月19日

27〜29回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

27 一葉舟(10/3)
28 興亜新劇団(10/10)
29 太源から北京へ(10/17)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 13:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月17日

小澤開作と李香蘭

今回の評伝では、召集解除になった青江が、一度は日本に戻ったものの再び大陸に渡って北京に滞在し、新民会の参事として活動した時代のことを書きました。その時代に交友があった人物としてクローズアップされるのが小澤征爾氏の父親・小澤開作と、映画女優・李香蘭こと山口淑子です。

小澤開作については、最近彼の業績を再検証する動きがあり、昨年6月には『石原莞爾と小澤開作―民族協和を求めて』という単行本が出版されています。そしてその本の第5章では、北京時代の青江のことも、小澤との関わりの中でかなり詳しく記述されています(P.234〜)。

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一方、李香蘭こと山口淑子とのエピソードの方は、1971年に刊行された『竹久夢二』の中で、青江自身が克明に書き残しています。
「もし日本軍が北京に攻めて来たなら、私は城壁の上に立って、どちらかの軍の銃弾に当たって死にたい」という言葉は、山口淑子の自伝である『李香蘭 私の半生』(1987)で描かれて以来、彼女の生涯を追ったドキュメンタリーやドラマ、舞台などに必ず登場し、すっかりおなじみになった名セリフですが、実は青江の『竹久夢二』には、パーティー帰りの彼女の口から同様のセリフが洩れたのを聞いたという記述があります。1987年以前の山口淑子は、自伝の執筆はすべて断っていたといいますから、「城壁に立って…」という彼女の言葉を活字にしたものとしては、青江の著書が、おそらく一番古いのではないかと思われます。ご興味のある方のために、その部分を抜粋しておきましょう。
 ある夜、私は山口淑子とあるパーティでいっしょになり、帰りを彼女の家まで送って行った。入ってお茶をと言う。もうおそいから帰ると言うと、映画の人たちなど、徹夜で話しこんで行くことだってめずらしくないと言われ、それではと応接間に通った。二人の思いは一つ、戦争はどうなるか、日本はどうなるか、そして東洋は―という、いつも私たちを大きな爪でがっしりつかまえてはなさないこの問題がすぐ私たちのロにのばる。話し合っても私たちの力ではどうなるものではないが、しかし話さずにはいられない。お互いがもっている情報を残らずさらけ出してあきれたり、怒ったり、悲しんだり、憂えたり―そのうちに彼女はすっと立ち上がった。あのキラキラする目を一点に据えほとんど叫ぶように、
「私は多くのひとに満人、あるいは中国人と思われているし、また日本軍のスパイとしてシナ側の情報を探っているとも言われてるわ。でもそれはみんなウソ。私はそんな情報を軍なんかに提供したことは一度だってなくってよ。それをあなたなら信じて下さるわね。私はこれでもレッキとした日本人よ。中国人でもなけれは満州人でもなけれは混血でもない。そりゃ子供のころから満州で中国人の間で暮らして、そのひとたちの風習だってよく知っているし、言葉だってあのひとたちと同じぐらいにはしゃべれます。…でも…でも…どうしたって私は日本人。戦争がこんなになればなるほど、その思いはますます強くなるんだわ。日本で暮らした経験なんてまったくないのに、どうしていまになってこうなんでしょうね。でもだからといって私は日本軍のためにスパイするなんていや。そんなことで中国人や満州人を裏切るなんて絶対できやしない。ああ、日本人だけど私は生まれて育った中国がとても好き。それなのにこんな戦争をしているなんて―たまらない。たまらないわ。…私はいつでも、からだがふたつに引き裂かれるように苦しいの。昔のシナの刑罰の車裂きの刑―まるでそれにかかっているみたいよ。ああ、私はいつ、いつそんな悪いことをしたのかしら。…ね、私いつでも思うんです。日本軍と中国の軍隊がどこかで撃ち合っているとき、私そのまんなかの城壁にかけのぼって大声で叫ぶの。『やめてえ。やめてえ。戦争なんかやめてちょうだい』…そして前と後ろからとんでくる弾丸に射たれて死んだらどんなに助かるだろうって。それが…それが私のたった一つのねがいだわ」
「……」
 私はもう何も言えず、強くわが拳をにぎりしめる。

(『竹久夢二』より)
posted by 室長 at 10:57| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月10日

目下苦戦中

評伝は今回から中国大陸編です。ある程度予想はしていましたが、先の大戦をまったく知らない世代が、その当時の模様を書くことには、想像していた以上の困難がつきまといます。今回は、締切りである火曜日の夕方に新聞社に一度原稿を送ったあと、「あ、この書き方だと誤解を招くかも」と思い直し、深夜に引用部分を変更して再送信、しかし、その後で改めて資料を読み返したところ、重大な事実誤認に気づき、さらに翌朝、その部分を訂正して三度目の送信をしました。またタイトルも、最初に送ったものは「大陸での日々」、次に「城壁になる男たち」、しかし最終的には「興亜新劇団」と3回も変更しています。こちらの勉強不足もありますが、平時とは違う状況をきちんと伝わるように書くのは本当に難しいです。特に戦争に関しては、体験していない者に、その様子を眼前の光景のように描くことは不可能でしょう。

青江は、雑誌の対談で当時のことを次のように語っています。
新聞記事で見ますと、戦争というのは朝から晩までアゴ出して、行軍しているかのごとき書き方をしますけど、そういう時期もあるけど、そうでない時は実に楽なんですよ。内地で飲めない酒がワンワンきて、うまいものはあるし、「安居楽業」ということばは、前線の軍人にして初めて味わえ得ることなんですね。ですから年がら年じゅう撃ち合いはしてやしない。目をつりあげて鉄兜かぶって、敵をにらんだりしてないですよ。しかし、やっぱりそれが戦争だと思うんですね。戦争ってものはね、緊張の連続じゃないんです。異常さの中にあって、それが日常化してしまう。それがこわいんだなあ。
(1970年8月号『新日本』座談会「大東亜戦争を語る」より)

一度読んだだけではわかりにくいかも知れませんが、「戦場では異常さが日常化する」というのは、それを体験した人間ならではの言葉だと思います。なお、青江は『大日本軍宣撫官』という単行本を書いているため、青江自身も宣撫官だったのではと誤解されることもあるのですが、青江は、自分の意志とは関係なく、徴兵されて戦地に送り出された召集将校、一方そのころの宣撫官は自らが望んで戦地に赴いた志願兵で組織されていましたから、モチベーションがまるで違います。しかし、連載にも書いたように、青江が彼ら宣撫官のひたむきな生き方に大いに心を動かされたのは事実のようです。
posted by 室長 at 13:12| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月04日

24〜26回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

24 河口@(9/12)
25 河口A(9/19)
26 河口B(9/26)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
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2009年10月03日

少尉殿を激励

今回の評伝では、中国大陸に渡る前、青江が故国に残した作品や仕事について書きました。「日本教育紙芝居協会」は、紙芝居の歴史をひもとく時には必ず名前が出てくる団体で、もう少し詳しくその活動について書きたかったのですが、スペースの関係で断念しました。

そして、「一葉舟」ですが、これも「河口」に比べると、ずいぶん簡単にしか触れられませんでした。この作品が花柳章太郎の熱心な要望によって完成に至ったことは書きましたが、花柳が秋田の連隊に青江を訪ねてきた時のこと、原稿を送ったところ、そのお礼にと、彼個人から400円(当時の青江の給料の約半年分)が送られてきたことなどには言及できませんでした。このあたりの、青江と花柳のほのぼのとした交遊エピソードは、青江自身の筆になる「宿縁久保田万太郎」に詳しく書かれています)。

なお、1939年の1月に久保田万太郎と深田久弥が青江を訪ねたことについても「宿縁久保田万太郎」に詳しく描かれていますが、その時の模様をスクープ(?)した秋田魁新報の記事を、この場で紹介しておきます。

19390112sakigake.jpg

二作家きのふ 少尉殿を激励 青江氏と久濶叙す

[既報]石坂洋次郎氏の「若い人」普及版出版記念会に出席すべく、山本改造社長と同行した作家久保田萬太郎、深田久彌両氏は長谷川部隊に天晴「少尉殿」として入隊中の秋田市の人大島長三郎氏、実は青江舜二郎のペンネームを以って創作をもなし殊に演劇に深い関係をもつ同氏を尋ねて激励に。十一日来秋、同夜田中町松華亭で大島氏と久し振りの交友を温めた。久保田氏は羽越線にて冬の日本海岸風情を味わふべく途中象潟辺か、温海へ宿泊の予定で、深田久彌氏は更に県北の雪の八幡岱に赴き二、三日スキーを楽しむべく別々に出発の筈。(右より深田氏、久保田氏、青江少尉)

(「秋田魁新報」1939年1月12日)


青江は風邪を引いたといって演習をさぼり、二人と料亭で酒を飲んだのですが、翌日の新聞にこの記事が載ったため、上官にばれて油を絞られたといいます。この1939年1月は、2日から4日まで「河口」の演出家の北村喜八と装置の吉田謙吉が秋田を訪ねていますから、青江にとっては千客万来の新年だったようです。と同時に、親しい人がこれだけ次々訪ねてくるということは、いよいよ出征も近いのだ、と青江自身も感じていたかも知れません。
評伝も次週から、舞台は中国大陸に移ります。
posted by 室長 at 12:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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