2009年11月28日

猿若清三郎さんが語る「少年西遊記」(1)

本日掲載の評伝では、青江が脚本を担当した日本テレビ開局当初の連続テレビドラマ「少年西遊記」(1953〜54年)のことを書きました。このドラマで主役の孫悟空を演じたのが、舞踊猿若流の8世家元・猿若清三郎さんです。ご多忙のところ稽古場にお邪魔して、いろいろと当時のお話をうかがったのですが、紙面では、そのごく一部しか紹介することができませんでした。そこでこの場を借りて、インタビューの完全版をお届けしたいと思います。黎明期のテレビ制作現場の熱気を今に伝える貴重な証言、どうぞごゆっくりお読み下さい(かなりのボリュームなので、3つに分けてアップします)。

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猿若清三郎 さるわか せいざぶろう

猿若流8世家元。父は猿若流7世家元(流祖)猿若清方。長男は同師範の猿若裕貴。
1941年、東京都生まれ。1950年、9歳で中村吉衛門劇団に入団。中村勘三郎(17代目)の部屋子となり、「中村ゆたか」を許名される。同年、歌舞伎座にて初舞台を踏む。1953年、日本テレビ制作の「少年西遊記」に主演。フジテレビの開局ドラマでも主演を務める。
1959年、吉衛門劇団を退団し大映映画株式会社に入社。「中村豊」の芸名で俳優として活躍していたが、1965年、同社を退社し、以後は日本舞踊家として振付・指導を中心に活動。
1981年、8世家元を襲名。1988年、NHK大河ドラマ「武田信玄」の所作指導を担当。これ以降、大河ドラマや金曜時代劇の振付・所作指導を数多く行う。現在、全日本舞踊連合理事長。


大嶋 そもそも、この「少年西遊記」に出演することになったきっかけは、どういうものだったんでしょうか。

猿若 私はそのころすでに中村吉衛門劇団に所属していまして、戦後の歌舞伎座の柿落とし(1951年)が初舞台だったんです。そういう芸歴があったからかも知れないんですが、ある時に中村時蔵さん(4代目)経由で話が来まして。ご親戚に日本テレビの上層部の方がいらしたらしいんです。それで、「今度日テレが開局して夕方の子ども向けドラマを始めるから、出演者のオーデションを受けてみて欲しい」って言われて…。一般募集だけでは心もとないということだったんでしょう。

※当時の模様を伝える「家庭よみうり」の記事によれば、主人公グループ(孫悟空、三蔵法師、猪八戒、沙悟浄)を決めるオーディションに、200人以上の応募があったという

大嶋 では、一般に応募されて来た人たちと同じようにオーデションを受けて…

猿若 ええ。紹介はされていたんだけど、行ってみたら知らない人ばかりで(笑)。そのころの日本テレビはスタジオが3つしかなくて、主にドラマをやる1スタと、公開番組をやる2スタが同じくらいの大きさ、あとは、デスクだけ置いてあってアナウンサーがニュースを読むくらいしかできない8畳くらいの3スタです。オーディションはその3スタでやりました。

大嶋 オーディションでは具体的にどんなことを?

猿若 台本のセリフの一部を読まされたり、あとは経歴を聞かれて…。そんな中で、歌舞伎に出ていることなんかも話したと思います。そのあと、1〜2週間くらい経ってでしょうか、「採用されました」という合格通知が来て、また日テレに行ったら、「君はこの役だよ」って言われたのが「孫悟空」だったんです。

※青江の随想には、「少しもじっとしていず、そこらのものをいじったり、とびまわったりする、きわめて動物的な感じで、どんな身振りの問題にもたちまち反射的に対応し、しかもそれが実に適確で審査員やスタッフを驚かせた」とあるから、ほぼ満場一致で猿若氏に決まったようだ

猿若 あとはもうバタバタでした。決まったとたん、孫悟空の形を…メイクの大関早苗さん(美容家)がいろいろ工夫して、「人間だけど猿の顔」を作りたいと、カメラに映ったらどうだこうだってカメラテストばっかりやらされて…。

大嶋 そのころの記録を見ると、俳優が決まってから第一回目の放送まで、10日くらいしかなかったようですからね。他の出演者はどんな顔ぶれだったんでしょう。

猿若 三蔵法師をやった「桐ちゃん」こと笠間桐子は、俳優の笠間雪雄さんのお嬢さんで、本人も劇団東童に入っていました。だから、彼女と私は一応経験者だったわけですが、あとは応募者の中から選ばれた本当の素人です。


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左から笠間桐子(三蔵法師)、大森春美(猪八戒)、青江、斉藤泰徳(山の神など)、堀越ゆたか[猿若清三郎](孫悟空)、斉藤晄朗(沙悟浄)


大嶋 「斉藤」という苗字の人が2人いるんですが、ご兄弟では?

猿若 ああ、これは赤の他人なんですよ。たまたま同じ「斉藤」が選ばれて…。

大嶋 猿若さん、笠間さんとそれ以外の人たちとは、現場ではどうだったんでしょうか。やはり、立ち位置の違いみたいなものはありましたか?

猿若 このくらいの年だと、やってる最中はそんなことはないですね。

大嶋 じゃあみなさん、それなりに仲良く…

猿若 そうですね。ただ、演出やスタッフとの口の利き方に、いくらか違いがあったかも知れません。プロと演劇部の違いっていうんでしょうか。彼らはスタッフにも、「次、どうやるの?」と友だち同志の感覚で質問していて、スタッフが説明してやると、「恥ずかしいよ、そんなの」みたいな反応でした。普通の小学生ですから無理もないんですけど、僕や桐ちゃんはそんな風にはちょっと言えなかったですね。

大嶋 そのころのテレビはすべて生放送ですから、いろいろご苦労も多かったと思いますが…。

猿若 もうたまんなかったですよ(笑)。当時はテレビ自体が始まったばかりで、演出家もスタッフもすべてが初心者でしょう。その上こっちも子どもだから、次のセットに飛び込んでいくのが間に合わないとかなんてことがよくあって、ドタバタの連続でした。(台本をめくって)このガリ版印刷の台本、今ではこんなにペチャンコだけど、当時はぶ厚くてね。しかもよく差し替えも出て…。何人かが分担して書いているから字が途中で変わるんですよね。読めない漢字も多くて、青江先生に「これ何て書いてあるんですか」なんて、よく聞きましたね。


daihon01.jpg 記念すべき第1週分の台本。1〜3話で1冊になっている


大嶋 この番組は、最初は月・水・金の週3回放送していましたが、本番までの流れはどういった感じだったんでしょう。

猿若 まず土曜日に1週間分の本読みがあって、日曜に立ち稽古、そして月、水、金の夕方に本番という流れだったと思います。そのころのテレビはお昼間と夕方からしか放送してませんでしたから、お昼間の放送が終わったあとスタジオに入って3〜4時間ドライリハーサル(テレビカメラを回さずに行うリハーサル)、特殊効果の段取りの確認なんかもこの時にやります。本番の30〜40分前でリハーサルは打ち切って、メイクのやり直しだとか衣裳の点検をして、それから本番という繰り返しでした。

大嶋 そうなると、結構な時間拘束されますよね。

猿若 そのころは12歳で小学校6年でしたが、学校には午前中だけ行って、午後はほとんど早退でしたね。すでに歌舞伎に出ていたんで、学校側は承知してくれていたんです。

大嶋 台本や当時の番組表を見てみると、放送時間が2回変わっているんですよね。番組開始からしばらくは月・水・金で1回10分だったのが、第13話から月・金の週2回、1回15分になって、さらに年明けの1954年1月の第26話からは毎週金曜日の30分番組になっています。この時に題名も「少年西遊記」から「少年孫悟空」に変わっています。

猿若 題名まで変わっていたんですか。それは記憶になかったですね。でも、放送時間が変わったのはよく覚えています。回数が減るってことは、評判悪いの?って、子どもながら不安になったものです。実際には最後まで1週30分で、トータルの時間数は変わっていないんですが。

大嶋 でも、生放送で30分ぶっとおしは大変ですね。

猿若 そうですよ。それまでは10分、15分ずつセリフを覚えればよかったのが、30分、全部覚えなくちゃいけない。特に孫悟空は毎回ほぼ出ずっぱりですから。でも、30分になってからの方が、お話の内容というか、進行状況はきちんとつかめるようになりましたね。10分の時は、あっという間に終ってしまうから、やってる方も何が何だか…(笑)。

(2)につづきます
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猿若清三郎さんが語る「少年西遊記」(2)

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「少年西遊記」の放送スタジオ(1スタ)。カメラは2台で、4つのセットが組まれている


大嶋 日本テレビ開局当時のテレビ受像機の普及数は、全国でわずか3ケタ(1,000台以下)だったそうで、そうなると、果たしてどれくらいの人がこの「少年西遊記」を見ていたのか?というのも気になるところなんですが、周囲での反応はいかがでした?

猿若 学校では、友だちの間よりも先生の反応の方が大きかったですね。「きみ、出てるねえ」なんて言われて…。そのころはテレビのある家に行かないと見られなかったから、先生がたも、どのくらい見ていたかはわかりませんが。

大嶋 猿若さんのご家庭にテレビは?

猿若 最初はなかったですね。ですから、祖父と父が変わりばんこに日テレに来ていましたよ。そうじゃないと見られないから。付き添いがてら、副調整室のモニターや、日テレの中のコーヒーショップに置かれたテレビで本番を見ていました。

大嶋 テレビというのは、普及率はまだまだでしたが、話題性は大変なものだったようですね。

猿若 ええ。ですからずいぶん取材はありました。物珍しいから。でも、こっちはハラハラするんですよ。本番やその前は集中したいですからね。こんな時間取ってられないのになっていうのはずいぶんありました。それから、当時の日テレには、テレビ塔を見に来るお客さんが多くて、玄関の通路を突き抜けると、窓からスタジオの様子が見えるんですよ。さすがに本番は入れないんですが、リハーサル中はギャラリーが見学していることもよくありました。演出家がいやにきどって喋りだしたと思ったら、団体客が見ていたりとかね(笑)。

大嶋 青江は随想で、「『西遊記』と言えばミスの代名詞、と言われるくらい失敗(放送事故)が多かった」と書いていますが、具体的に何か覚えていらっしゃいますか?

猿若 やっぱり一番は、燃えているお寺のミニチュアにスタッフが水をかけちゃったという…。

大嶋 ああ、青江も随筆に書いていますよ(以下、随想集「引っ越し魔の調書」より引用)。

 「少年西遊記」の第何回目だったかに大きなお寺がやけるシーンがあった。これは『サンデー毎日』の批評にもほめられた通り、ミニチュアをつかった特殊技術で、わずか一、二寸の炎が、えんえんたる大火に見えるのがミソなのだが、そのことが不幸にも、スタジオ班全員に、事前に徹底していなかった。いよいよ火事の場面になると、一人のスタジオマンは、
「スワコソ! 失火」
 とばかりに、やにわにバケツに水をくんで来て、ミニチュアの前におどり出すなり、ザブリと水をぶっかけた。それがそのままカメラに入って、あたら技術も夢のあと、水の泡とぞ消え失せて、ディレクターも、フロアマネジャーも、思わず、
「ウワア、マジイなあ!」
 と叫んだ、その叫び声さえきれいに入って、それからあとはてんやわんや。まことにオカしくもまた悲しきことでございました。


猿若 僕の記憶だと、水をかけたのは小道具美術の蒲生さん(後に日本テレビのディレクター)で、「これ以上火が大きくなると危ない」っていう判断だったと思います。スタジオ管理の人間に注意されてあわてて処置したのかも知れませんが。

大嶋 いずれにしろ、カメラを切り替える間もなく、それがそのまま放送されてしまったわけですよね。


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リハーサル風景。右から2人目が青江、左から2人目が猿若氏


猿若 あとは、やっぱり生放送ですから、時間の制約で苦労したことが多かったですね。本番の途中から、FD(フロアディレクター)が指をくるくる回して「巻き」(急げ)のサインを出すわけですよ。こっちはトンボじゃないよっていうくらい(笑)。それでいて今度は、もう番組の終わりくらいになって、いきなり両手を引っ張って「のばせ」のサインですよ。もう私なんか敵に縛りつけられてやることなくて、仕方なく、悪い魔王がアップでえんえん「わっはっはっは」って、1分近く笑っていたことがあります。その魔王も最後はとうとう笑いながら涙声になってしまって…。あれはおかしかったですね。

大嶋 1分も時間がずれるっていうのはすごいですね。本読みをやって、リハーサルもやっているわけですから、スタッフも当然時間配分は考えていたと思うんですが…。

猿若 そうなんですが、今思うと、タイムキーパーの測り方も幼稚だし、出てる僕らも幼稚だし、島田正吾先生みたいに、何回やっても同じ分数、みたいにはいかないじゃないですか。

大嶋 なるほど。テレビそのものがまだ「よちよち歩き」だったっていうのがよくわかりますね。ところで、その当時コマーシャルは入っていたんですか。

猿若 最初のうちは「サスプロ」(放送局自身が制作費を負担する番組)でしたけど、最後の方にテスト的にスポンサーが入ってきました。たしか、万年筆会社だと思うんですが…。これも傑作でして、ドラマが全部終ったあとでカメラが切り替わって、新劇の俳優さんが「みなさん、入学のお祝いに是非、○○万年筆を…」と生コマーシャルをやるんですが、その俳優さんも初めてで緊張したんでしょう、いきなりライバル会社の名前を言ってしまって。僕たちは子どもだからゲラゲラ笑ってたんですが、その俳優さんは二度と使ってもらえなかったみたいです。


interview01.jpg 当時の台本をめくりながら、話は尽きることなく…


(3)につづきます
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猿若清三郎さんが語る「少年西遊記」(3)

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クランクアップの記念撮影(1954年3月26日)


大嶋 青江は脚本だけでなく、かなり現場にもタッチしていたようですが。

猿若 そうですね、私の記憶では、最初の1週目は当然全部いらしていて、2、3週目は本読みだけだったような気もするんだけれど、そのあたりでいろいろとミスが続いたもんだから、それ以降は、いないとまずいと思ったんでしょう。立ち稽古かドライリハーサルのどちらかには必ず立ち会われてましたし、本番は、演出と一緒に副調整室で見ていました。現場への関わりは深かったですね。

大嶋 演出家は別にいたわけですよね。

猿若 そうです。日テレの社員ディレクターで、まだ20代の後半くらいだったかな。今だと、演出家のひとことでカメラも照明も動いてくれますよね。でも当時は、演出家もカメラも照明も全部社員でいわば同格だから、意見のぶつかり合いになっちゃうんですよ。それを青江先生が制してたみたいな感じでしたね。

大嶋 青江はもう40代の後半でしたし、立場も社員ではなく嘱託でした。だから強く言えたんでしょう。

猿若 それでよかったんですよ。誰かがビシッと言わないとまとまりませんから。青江先生はプロの作家さんで、あとのスタッフは経験が浅いな、と子どもながらに何となくわかっていましたね。

大嶋 そうなると、演出家にダメ出しをすることなんかも…

猿若 ええ。青江先生は若いディレクターにはずいぶんどなってましたよ。ドライの時なんか特にね。「そんな言い方したんじゃ、やってる方はわかんないだろう!」「この一行はどっちからどっちへ行くんだ!」なんて、要するに、もっと子どもたちに理解できるように説明しろと。それを見て僕らは、「怖いおじさん」と思ってました。

大嶋 猿若さんたちに対しては、どうだったんでしょう。

猿若 いや、僕らにはそんな風におっしゃらないんです。「だめだよ、そんなとこで遊んでないで」みたいなことは言われるけれど、あとはリハーサルの時、「あ、そこはもっと真剣な方がいいな」っていうくらいで。


daihon37.jpg 最終回の台本。題名が「少年孫悟空」になっている


大嶋 ほかに現場で印象に残っていらっしゃる青江とのエピソードがあれば、是非うかがいたいのですが。

猿若 そうですね。主人公として、役にどう取り組むか―孫悟空は人間なのか、猿なのか―ということは、何回か相談した覚えがあります。

大嶋 それに対して、青江は何と?

猿若 「こことここ、と決めたところだけは猿っぽくやってよ、それ以外のところは、孫悟空は擬人化した存在なんだから、人間で構わない。立ち回りをやって、決めのポーズの時だけ『キーッ』とやって猿になってくれ」というようなことをおっしゃいました。そういう、役の本質に関わるようなことは、ディレクターよりも青江先生にお聞きしましたね。

大嶋 台本を読むと、孫悟空と悪い魔王の術比べがあったり、かなり特殊撮影にも工夫が凝らされていたようなんですが。

猿若 ええ、いろいろやりましたよ。クロマキーを使って、パッと出るとか消えるとか、でも衣裳の中にブルーが入ってて、いるはずの人間まで透けちゃったりね(笑)。

大嶋 そのころ、すでにクロマキーが使われてたんですか。

猿若 ええ、炎に包まれて「あちいあちい」なんていうのも、自分の回りには何にもないのに、ブルーの幕の前で一生懸命演技しました。それから、雲に乗って飛ぶところは、後ろからスクリーンに風景を投影する、いわゆるスクリーンプロセスを使っていましたね。

大嶋 なるほど、「フィルム素材を用意」と台本に書かれていたりするんですが、これは多分投影用ですね。

猿若 そうですね。雲とか炎なんかはフィルムで撮影されてたんでしょう。


songoku.jpg 「家庭よみうり」より


大嶋 そういった特撮とは別に、生身でのアクションシーンも多かったようですね。

猿若 ええ。ですから、リハーサルでもそのための時間を結構取りました。僕は踊りをやっていて歌舞伎の世界にもいたから、間だとかイキだとかは体に入っているわけですよ。でも、新劇の人たちはそういう訓練をあまりされていないから、呼吸を合わせるのが大変でした。相手が飛び上がった瞬間に、僕が如意棒でさっと空を切れば、相手がよけたように見えるのに、「先に飛び上がってくれれば僕やりますから」って言っても、なかなかタイミングが合わないんです。でも、年は相手の方が上ですからね、あまり強くは言えないわけです。

※青江の随筆には、「三蔵一行と悪魔妖怪たちとの乱闘の手順など清方氏(スタジオに来ていた猿若氏の父上)をおがみ倒してつけてもらい、孫悟空にはさまざまな六法を踏ませたりした」との記述がある。

大嶋 如意棒が大きくなるのはどういう仕掛けで?

猿若 あれも大変でしたよ。いろんなサイズの如意棒を用意しておいて、場面に応じて取り替えるんです。あと、さっと振ると伸びる如意棒なんかも小道具さんが作ってくれました。でもそれがブリキでね、重いんですよ。実際の大きい棒は軽い白木で作ってありましたけど。でも、それで立ち回りをやると、新劇の人の演技って写実でしょう、思い切り当ててくるわけです。本番で、あっちが折れるならいいんだけど、孫悟空の如意棒が折れたら終わりですからね。だから、途中から重い樫の棒を使うようになったりして、辛かったですよ。

大嶋 あのころはすべて生本番で、ビデオもありませんから、そういったご自身の勇姿は一切ブラウン管でご覧になることはできなかったわけですよね。

猿若 そうなんです。唯一見たのは、タイトルバック用にフィルムで撮ったところですね。テストを兼ねて日テレの庭で撮った…。上れないような高いところに上って、カメラに向かって如意棒を構えて、それでタイトルが出るという…。そこだけは、オープニングで流れるので、毎回見ていました。

大嶋 当時の台本を読んで、今またこうしていろいろなお話をうかがうと、どうにかして実際の映像を見てみたくなります。残っていないのが本当に残念です。

猿若 そうですね。あのころは、テレビというのはその場で流れて終わり、という感覚でしたからね。


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特別番組「楽しいお友達」でのひとコマ。右から2人目が青江、となりが猿若氏(1954年11月27日)


大嶋 「西遊記」の放送終了から8カ月後、当時を振り返る特別番組「楽しいお友達」が放送されているんですが、その後共演者の方たちとは、行き来はなかったんでしょうか。

猿若 それはなかったですね。ですから、桐ちゃんなんて今どこでどうしているのか…。僕と同い年だから、もういいおばさんなんだろうけれど。でも、僕が所作指導に入ってから、こういうことがありました。ある番組の収録現場で「ゆたかさんですか」って声をかけられたんです。相手の俳優さんに見覚えはなかったんですが、その方が、「私、ゆたかさんが孫悟空をやっていた時に、敵の魔王役で出ました」っておっしゃるんです。魔王って言われても、魔王がやたら多かったから思い出せないんですが(笑)。ずいぶんお年を召した方でしたけど、「よく覚えてらっしゃいましたね」ってこっちも何だか嬉しくなって…。そういうことがありました。

大嶋 今日は長い時間、大変貴重なお話をありがとうございました。

猿若 こちらこそ、ありがとうございました。

「少年西遊記」 (第26回より「少年孫悟空」に改題)
放映日:1953年10月19日〜1954年3月26日(全37回)
制作:日本テレビ放送網株式会社
作:青江舜二郎 演出:中村昭二、田島直時 プロデューサー:長谷川仁
出演:堀越ゆたか[猿若清三郎](孫悟空)、笠間桐子(三蔵法師)、大森春美(猪八戒)、斉藤晄朗(沙悟浄)、斉藤泰徳(山の神など)
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2009年11月27日

32〜34回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

32 鎌倉アカデミア(11/7)
33 新生活(11/14)
34 テレビジョンの時代(11/21)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
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2009年11月10日

教え子が綴る、青江の鎌倉アカデミア時代

11/7掲載分の評伝で、鎌倉アカデミアのことを書きましたが、その中で、当時の授業の様子を語って下さった劇作家・若林一郎さん(演劇科2期生)の談話を紹介したところ、ご本人からメールを頂戴しました。
「『鎌倉アカデミア落穂集』(2006年に創立60年を記念して出された記念文集)に載せた思い出から、青江先生についての分をまとめてみました。ブログの材料にでもお使いいただければさいわいです」
とのこと。評伝では字数の制約もあって、充分に当時の模様をお伝え出来たか心もとないところだったので、お言葉に甘えて、若林さんが送って下さった文章を、以下に掲載させていただきます。

なお、若林さんは現在、東京都荒川区のムーブ町屋で、月に一度「紙芝居劇場」を行っています。子どもも大人も楽しめるレパートリーで、次回は11月14日(土)。先日、東京新聞にも取り上げられていました。青江が戦前から深く思い入れていた「紙芝居」という演劇の一形式を、教え子である若林さんが継承しているというのは、大変に感慨深いものがあります。私も年に数回は観させていただいていますが、末長く続いて欲しいと願わずにはおられません。お近くの方は、どうぞお出かけ下さい。

・想像力を引き出す昔話のぬくもり ムーブ町屋の紙芝居劇場(東京新聞 2009年11月7日付)
・ムーブ町屋の紙芝居劇場(イベントの詳細)

青江舜二郎先生の思い出
若林一郎


 日本が太平洋戦争で負けた翌年、鎌倉アカデミアという学校が生まれた。
 光明寺というお寺の本堂をベニヤ板で仕切った教室で、文字通り寺子屋のような学校だった。けれども教授陣はすばらしかった。三枝博音、服部之聡、吉野秀雄、高見順、中村光夫、村山知義……先生方のお名前を並べただけで、その授業を受けた幸せを感じずにはいられない。経営不振で、たった四年間で廃校となってしまった学校だが、そこで学べたことをぼくは生涯の幸せだと思っている。

 先生方のさまざまな思い出は尽きないが、特に青江舜二郎先生は、ぼくら二期以下の演劇科生徒にとっての「師父」だった。鎌倉アカデミアの生活を通して、ぼくらは先生からどれだけ大きなものを受け取ったかわからない。「演劇とはどんなものか」をぼくらに示してくださったのは先生だ。

 先生の「悲劇論」の講義の、回が進むに従って沸き立ってくる、まるで推理小説を読むような興味と感動! それはギリシアのアリストテレスによる悲劇の定義から始まる。アリストテレスによれば、悲劇とは「恐怖と愛憐の情」をかきおこすことによって、観客の心に「カタルシス(浄化作用)」をもたらすものだという。「カタルシス」とはなにか? それ以後のさまざまな演劇論が解明できなかった謎に、ついに二十世紀になってフロイトの理論が光りを当てる。現代科学が到達した人間の深層心理の中に、演劇の本質が隠されていることをぼくらは知る!

「戯曲論」の講義では先生は綿密に方眼紙に書いていらした戯曲の構成を、黒板に写される。菊池寛の『父帰る』やストリンドベリーの戯曲の構成が、クライマックスに到るなだらかな上昇線と、破局から終幕に到る急激な下降線で、手にとるように示される。「起承転結」の説明に四コマ漫画の『サザエさん』を使ったりなさって、楽しい講義だった。
 ドイツ表現派の巨匠・ゲオルク・カイザーの作品が採りあげられたのは、なんの講義のときだったろうか。そのとき表現派と親しんだお蔭で、一時大流行したアングラ演劇をみても少しも驚かずにすんだ。

 先生の講義は、教室だけではなかった。そのころ荻窪に住んでいらした先生のお宅にたびたび押しかけては、お話をうかがった。そのうち劇作家志望の生徒を中心としたアイルランド演劇のゼミナールを先生は開いてくださった。参加したのは四、五人で、月一回ずつ行われた。
 中央線の線路に近い家に先生は間借りをしていらした。狭い急な階段をあがったところが先生のお部屋で、壁一杯に積み上げられた本の間で文字通り「膝つきあわせて」の研究会だった。先生はそのためにいつの間にか小さな黒板を買っていらして、チョークの粉をドテラにこすりつけて、熱心に講義をしてくださった。こちらは戦争中は学徒動員の工場勤めで、ろくに英語の勉強もしていなかったから、先生に渡されたグレゴリー夫人やの原書を読むのに必死になった。

 アイルランド演劇が、祖国の独立運動と共に生まれたときのグレゴリー夫人やイエイツやシングの情熱が、そのまま先生の情熱だった。「もっともインターナショナルな演劇は、もっともすぐれて民族的な演劇なのだ」「民族の心のたかまりを映して演劇は生まれる」という先生の教えに耳をかたむけた夜をぼくはいまだに忘れずにいる。そのころの新劇は、左翼的な思想に支配されていた。それとは異なるものの味方をぼくは先生に教えられた。

 研究会が終わればお酒となった。さしてお手元に余裕があると思えないお暮らしだったのに、いつもお酒が用意されていた。ぼくらは遠慮というものを知らない。かくて研究室はたちまち梁山泊となる。先生は談論風発、秋田人独特の血色のいいひとなっつこいお顔と、体を揺するような哄笑で僕たちを包んでくださった。

 あのころ先生に教えられたことは、ぼくにとっての生涯の指針となった。そして「名利を捨てて生きる」美しさを、ぼくらはアカデミアの先生方に教えられたと思っている。

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2009年11月07日

30、31回分をアップしました

今回の評伝では、鎌倉アカデミアのことを書きました。
青江は最初に教鞭を執ったこの学校にはことのほか思い入れがあったようで、廃校の後も、演劇科の俳優希望の有志を募って「アトミクス」というグループを結成、谷中にあるお寺の一間を借りて1年間、発声などの基礎訓練を行ったといいます。このあたりのお話は演劇科三期生の樋口輝剛氏にうかがったのですが、字数の関係で紙面では取り上げることが出来ませんでした。

ここ2回分の連載画像もアップしておきます。
異端の劇作家 青江舜二郎

30 終戦(10/24)
31 帰還(10/31)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
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2009年11月04日

文学資料館で講演

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いきなりの寒波到来で、秋田市内に初雪が舞った11月2日(月)、あきた文学資料館において「異端の劇作家 青江舜二郎 その生涯と作品」と題した講演を行いました。
今回は、魁新報での連載と歩調を合わせるように、終戦直後までの青江の人生と作品を紹介しました。私の話だけでは単調になってしまうと考え、話の合間に、生誕百年記念作品として製作した「水のほとり」(CD)、「実験室」(DVD)の一部を再生、上映しました。こうした視聴覚資料によって、青江戯曲の魅力の一端に触れていただけたのではないかと思います。また、幼少年期や秋田中学時代のエピソードを記述した随想の朗読もいくつか行ってみました。青江の「故郷への秘めたる思い」を、いささかでも感じていただくことが出来たならば幸いです。

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悪天候にも関わらずおいでいただいた多くの方々、そしてこのような機会を与えて下さった、あきた文学資料館および秋田県立図書館の職員の方々に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

劇作家・青江舜二郎 長男の大嶋さん講演(2009年11月5日 秋田魁新報)
posted by 室長 at 18:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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