猿若清三郎 さるわか せいざぶろう
猿若流8世家元。父は猿若流7世家元(流祖)猿若清方。長男は同師範の猿若裕貴。
1941年、東京都生まれ。1950年、9歳で中村吉衛門劇団に入団。中村勘三郎(17代目)の部屋子となり、「中村ゆたか」を許名される。同年、歌舞伎座にて初舞台を踏む。1953年、日本テレビ制作の「少年西遊記」に主演。フジテレビの開局ドラマでも主演を務める。
1959年、吉衛門劇団を退団し大映映画株式会社に入社。「中村豊」の芸名で俳優として活躍していたが、1965年、同社を退社し、以後は日本舞踊家として振付・指導を中心に活動。
1981年、8世家元を襲名。1988年、NHK大河ドラマ「武田信玄」の所作指導を担当。これ以降、大河ドラマや金曜時代劇の振付・所作指導を数多く行う。現在、全日本舞踊連合理事長。
大嶋 そもそも、この「少年西遊記」に出演することになったきっかけは、どういうものだったんでしょうか。
猿若 私はそのころすでに中村吉衛門劇団に所属していまして、戦後の歌舞伎座の柿落とし(1951年)が初舞台だったんです。そういう芸歴があったからかも知れないんですが、ある時に中村時蔵さん(4代目)経由で話が来まして。ご親戚に日本テレビの上層部の方がいらしたらしいんです。それで、「今度日テレが開局して夕方の子ども向けドラマを始めるから、出演者のオーデションを受けてみて欲しい」って言われて…。一般募集だけでは心もとないということだったんでしょう。
※当時の模様を伝える「家庭よみうり」の記事によれば、主人公グループ(孫悟空、三蔵法師、猪八戒、沙悟浄)を決めるオーディションに、200人以上の応募があったという
大嶋 では、一般に応募されて来た人たちと同じようにオーデションを受けて…
猿若 ええ。紹介はされていたんだけど、行ってみたら知らない人ばかりで(笑)。そのころの日本テレビはスタジオが3つしかなくて、主にドラマをやる1スタと、公開番組をやる2スタが同じくらいの大きさ、あとは、デスクだけ置いてあってアナウンサーがニュースを読むくらいしかできない8畳くらいの3スタです。オーディションはその3スタでやりました。
大嶋 オーディションでは具体的にどんなことを?
猿若 台本のセリフの一部を読まされたり、あとは経歴を聞かれて…。そんな中で、歌舞伎に出ていることなんかも話したと思います。そのあと、1〜2週間くらい経ってでしょうか、「採用されました」という合格通知が来て、また日テレに行ったら、「君はこの役だよ」って言われたのが「孫悟空」だったんです。
※青江の随想には、「少しもじっとしていず、そこらのものをいじったり、とびまわったりする、きわめて動物的な感じで、どんな身振りの問題にもたちまち反射的に対応し、しかもそれが実に適確で審査員やスタッフを驚かせた」とあるから、ほぼ満場一致で猿若氏に決まったようだ
猿若 あとはもうバタバタでした。決まったとたん、孫悟空の形を…メイクの大関早苗さん(美容家)がいろいろ工夫して、「人間だけど猿の顔」を作りたいと、カメラに映ったらどうだこうだってカメラテストばっかりやらされて…。
大嶋 そのころの記録を見ると、俳優が決まってから第一回目の放送まで、10日くらいしかなかったようですからね。他の出演者はどんな顔ぶれだったんでしょう。
猿若 三蔵法師をやった「桐ちゃん」こと笠間桐子は、俳優の笠間雪雄さんのお嬢さんで、本人も劇団東童に入っていました。だから、彼女と私は一応経験者だったわけですが、あとは応募者の中から選ばれた本当の素人です。

左から笠間桐子(三蔵法師)、大森春美(猪八戒)、青江、斉藤泰徳(山の神など)、堀越ゆたか[猿若清三郎](孫悟空)、斉藤晄朗(沙悟浄)
大嶋 「斉藤」という苗字の人が2人いるんですが、ご兄弟では?
猿若 ああ、これは赤の他人なんですよ。たまたま同じ「斉藤」が選ばれて…。
大嶋 猿若さん、笠間さんとそれ以外の人たちとは、現場ではどうだったんでしょうか。やはり、立ち位置の違いみたいなものはありましたか?
猿若 このくらいの年だと、やってる最中はそんなことはないですね。
大嶋 じゃあみなさん、それなりに仲良く…
猿若 そうですね。ただ、演出やスタッフとの口の利き方に、いくらか違いがあったかも知れません。プロと演劇部の違いっていうんでしょうか。彼らはスタッフにも、「次、どうやるの?」と友だち同志の感覚で質問していて、スタッフが説明してやると、「恥ずかしいよ、そんなの」みたいな反応でした。普通の小学生ですから無理もないんですけど、僕や桐ちゃんはそんな風にはちょっと言えなかったですね。
大嶋 そのころのテレビはすべて生放送ですから、いろいろご苦労も多かったと思いますが…。
猿若 もうたまんなかったですよ(笑)。当時はテレビ自体が始まったばかりで、演出家もスタッフもすべてが初心者でしょう。その上こっちも子どもだから、次のセットに飛び込んでいくのが間に合わないとかなんてことがよくあって、ドタバタの連続でした。(台本をめくって)このガリ版印刷の台本、今ではこんなにペチャンコだけど、当時はぶ厚くてね。しかもよく差し替えも出て…。何人かが分担して書いているから字が途中で変わるんですよね。読めない漢字も多くて、青江先生に「これ何て書いてあるんですか」なんて、よく聞きましたね。

大嶋 この番組は、最初は月・水・金の週3回放送していましたが、本番までの流れはどういった感じだったんでしょう。
猿若 まず土曜日に1週間分の本読みがあって、日曜に立ち稽古、そして月、水、金の夕方に本番という流れだったと思います。そのころのテレビはお昼間と夕方からしか放送してませんでしたから、お昼間の放送が終わったあとスタジオに入って3〜4時間ドライリハーサル(テレビカメラを回さずに行うリハーサル)、特殊効果の段取りの確認なんかもこの時にやります。本番の30〜40分前でリハーサルは打ち切って、メイクのやり直しだとか衣裳の点検をして、それから本番という繰り返しでした。
大嶋 そうなると、結構な時間拘束されますよね。
猿若 そのころは12歳で小学校6年でしたが、学校には午前中だけ行って、午後はほとんど早退でしたね。すでに歌舞伎に出ていたんで、学校側は承知してくれていたんです。
大嶋 台本や当時の番組表を見てみると、放送時間が2回変わっているんですよね。番組開始からしばらくは月・水・金で1回10分だったのが、第13話から月・金の週2回、1回15分になって、さらに年明けの1954年1月の第26話からは毎週金曜日の30分番組になっています。この時に題名も「少年西遊記」から「少年孫悟空」に変わっています。
猿若 題名まで変わっていたんですか。それは記憶になかったですね。でも、放送時間が変わったのはよく覚えています。回数が減るってことは、評判悪いの?って、子どもながら不安になったものです。実際には最後まで1週30分で、トータルの時間数は変わっていないんですが。
大嶋 でも、生放送で30分ぶっとおしは大変ですね。
猿若 そうですよ。それまでは10分、15分ずつセリフを覚えればよかったのが、30分、全部覚えなくちゃいけない。特に孫悟空は毎回ほぼ出ずっぱりですから。でも、30分になってからの方が、お話の内容というか、進行状況はきちんとつかめるようになりましたね。10分の時は、あっという間に終ってしまうから、やってる方も何が何だか…(笑)。
(2)につづきます