異端の劇作家 青江舜二郎
35 少年西遊記(11/28)
36 そのころ(12/5)
37 法隆寺@(12/12)
38 法隆寺A(12/19)
※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
2009年12月31日
35〜38回分をアップしました
ここ数回分の連載画像をアップしました。
2009年12月26日
年の瀬の番狂わせ
今回の評伝では、青江が編集長を務めた雑誌『若い芸術』のことを…、と書きたいところなのですが、何と、昨日の夜に2010年度の政府予算案が発表されたため、紙面がそれに大きく割かれることになり、学芸欄はまるまるその犠牲になったのでした。よって、本日掲載予定分は、来年1月9日に掲載です。1月2日も新聞休刊日のため、2週続けてのお休みとなってしまいました。
こちらとしては、キリのいいところまで話を進めて、あとは来年のお楽しみ、としたかったのですが、こればかりはどうしようもありません。というわけで、このブログも今年はこれで打ち止めとさせていただきます。どなた様もよいお年をお迎え下さい(年内掲載分の連載画像は数日中にアップする予定です)。
こちらとしては、キリのいいところまで話を進めて、あとは来年のお楽しみ、としたかったのですが、こればかりはどうしようもありません。というわけで、このブログも今年はこれで打ち止めとさせていただきます。どなた様もよいお年をお迎え下さい(年内掲載分の連載画像は数日中にアップする予定です)。
2009年12月07日
『火の起原の神話』復刊

青江が翻訳をし、1971年に角川文庫から刊行された『火の起原の神話』が、このほど、ちくま学芸文庫から復刊されることになりました。発売は今月9日で、出来上がり見本が一昨日こちらの手元に届いたばかり。評伝連載や資料展示というイベントが続く中での復刊とは、何とも嬉しいタイミングです。しかし、この本がふたたび陽の目を見るまでのプロセスは、それほど簡単なものではありませんでした。
この本は、未開社会の神話や呪術、信仰などの研究書『金枝篇』で知られる人類学者ジェームズ・フレイザーが、世界各地の民族が語り伝えてきた「火」の起原にまつわる神話を一冊にまとめたもので、青江は戦後、まず『金枝篇』を、そして次にこの本を古書店で手に入れます。
私の戯曲「火」との親近感で気持がはずむ。読むと意外にやさしく、これなら自分でも訳せそうだと思った。(中略)だがそのころはわが国でも民族学や民俗学がしだいに流行して来ていたから、おそらくこの本も誰かが訳してどこからか出るだろうとそれをあてにした。(あとがきより)
ところが、それから20年近くが過ぎても、翻訳本が出る気配が一向にないため、それならば、と、自分が訳すことを決めたといいます。しかし、青江は本人も認めるとおり、神話学や民俗学については「アマチュア」です。したがって、学術書と向き合うというよりは、あくまで「一般向けの読み物」を訳すという姿勢でこの仕事に取り組んだようです。
今回、ちくま学芸文庫の編集部の方から復刊のお話しをいただいた時、「民族や動物の名前など、当時と現在とで呼称が異なっているものは適宜修正させていただいていいですか?」と相談され、「もちろん構いません」とお答えしたのですが、念のためゲラを見せていただいたところ、その修正の数が半端ではないのです。全部に目を通すだけで、たっぷり2日かかりました。

編集部の方によると、この本が出た当時と違い、現在ではインターネットなどの普及で、誰でも簡単に物を調べることが出来る、だから表記の間違いなどには細心の注意を払いたい、とのことでした。もっともな話です。しかし、よくよく修正箇所を見ていくと、民族などの呼称だけでなく、あきらかに誤訳と思われるところや、うっかり訳し忘れているところ(こんなことがあるの? と正直大変驚きました)にも筆が入れられています。編集部では原著と首っ引きで、数カ月を要して本文全体の細かいチェックを行ったというのです。まさに「学芸文庫」の面目躍如です。
「これなら最初から訳し直しをした方が早かったんじゃないですか?」
と思わず聞いてしまうくらい、青江の訳は、ある意味アバウトでした。さすがに「アマチュア」だと自ら断りを入れるだけのことはあります。しかし編集部の方は、
「いえ、でも青江先生のお訳は、劇作をやられているだけあって、物語として大変面白く読めるようになっていて、学者の方の固い訳とは違うよさがあると思います」
との嬉しいお言葉。その上、
「もし青江先生がご存命でしたら、直接お目にかかって、いろいろとお話しをうかがいながら、作業を進めたかったです」
と残念そうにおっしゃるのです。青江はそういう探究心旺盛な人たちと議論を戦わせるのが何より好きな人だったので、それを聞いて思わず胸が熱くなりました。本当に、そういう場が持てれば、本人もどんなに嬉しかったことだろう…と。しかし、亡くなってもう25年以上も過ぎた人に対して、そんな気持ちを抱いて下さる方がいることに、「作家の幸福」を感じたりもしました。書いたものを通して、青江は今もこの世と関わりを持ち続けているということ…。
青江の持つ劇作家の筆致と、ちくま学芸文庫編集部の緻密な検証が合体した今回の『火の起原の神話』は、まさに決定版というにふさわしいものだと思います。書店で見かけましたら、是非お手に取ってご覧下さい。
火の起原の神話
J.G.フレイザー 青江舜二郎・訳
ちくま学芸文庫 文庫判 368頁 刊行 2009/12/09
ISBN 9784480092687 JANコード 9784480092687
定価1,260円(税込)
・筑摩書房ホームページ
・Amazonで詳しく見る
2009年12月05日
モンテンルパ望郷の歌
本日掲載の評伝では、昭和20年代後半の青江の仕事をいろいろと紹介しましたが、その中のひとつに映画「モンテンルパ望郷の歌」(1953)の脚本があります。作品に関わったいきさつを青江は次のように書き残しています。
『残された人々』(左)と印刷台本
キャストが豪華な割に、配給会社がなかなか決まらなかったのは、重い現実を下敷きにした作品で、娯楽的要素に乏しかったからのようです。しかし、どうにか大映が配給を引き受け、1953年7月22日に公開。折りしもその日は、元死刑囚の方たちが釈放され、日本に帰還した当日で、新聞も紙面で大きくそれを取り上げました。青江も釈放された人たちの出迎えに、横浜港まで行っています。
当時の朝日新聞
これだけタイムリーだと、映画の方も大入り満員を期待したくなりますが、結果は芳しくありませんでした。配給会社決定から公開までが2ヵ月と短く、充分な宣伝ができなかったのが大きな敗因のように思えますが、何より、宣伝予算が不足していたのでしょう。独立プロ製作の映画というのは、作品完成には何とかこぎつけても、その後の配給まで力が及ばず、惨憺たる結果に終わるということが多いのですが、その辺の事情は昔も今もあまり変わっていないようです(私自身も身に覚えがあるので、書いていて辛いものがあります)。足立欽一の逝去は公開の翌年ですから、やはり公開の失敗が身にこたえたのでしょう。

公開前日の朝日新聞に載った広告。個人的にはとなりの「さすらひの湖畔」も気になるところ(主演がキリヤマ隊長!)
いずれにしろ、青江が参加した数少ない劇映画です。どこかで観ることは出来ないものかと思って調べてみましたが、当然のことながらビデオ化、DVD化などは一切されていませんし、フィルムセンターの収蔵作品リストにも入っていません。製作元の重宗プロはもはや存在せず、最後に、大映映画作品の著作権を管理している角川映画に問い合わせてみたところ、「当方でも作品原版の所在はわかりません」との返答でした。差し当たって、プレスシートだけはコンテンツ事業部に保管されていたので、その画像を送ってもらったのですが、この幻の映画は、果たして今どこに眠っているのでしょう。どなたか、有力な情報がありましたらお教えいただきたいと思います。
当時のプレスシート
なお、今年の9月12日に『戦場のメロディ 〜108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌〜 』というドキュメントドラマがフジテレビ系列で放送されました。歌手・渡辺はま子(演・薬師丸ひろ子)や教誨師・加賀尾秀忍(演・小日向文世)の尽力により、モンテンルパの死刑囚108人が釈放され日本の土を踏むまでが描かれており、不意打ちのような死刑執行や、オルガンを囲んで「あゝモンテンルパの夜は更けて」を刑務所内で歌うシーンなど、この映画と重なるところの多い作品でした。
1952年10月の青江の日記には、「渡辺はま子に交渉の件…日劇の楽屋に寄る。彼女丁度出番を終えたところなり。モンテンルパのこと話す。好意的な返事なり」という記述があり、その2日後には今度は彼女の事務所を訪ねていますから、映画の冒頭かエンディングで、渡辺はま子の歌う「あゝモンテンルパの夜は更けて」を使うという計画があったのかも知れません。
※今回掲載の画像はすべてクリックすると拡大します
鎌倉アカデミアは四年目でつぶれてしまったが、それ以後足立(欽一)さんにどこからか金がはいったらしく、私がラジオ東京にいる時「六百万ばかりあるが何をしようか」という相談をもちかけられた。
「貸しスタジオをおたてなさい」
私はすぐさま言った。ラジオ東京につづいて、やがて文化放送も生れようとしていた時で、テレビの機運も動いておりスタジオはいくつあっても足らなかったのだ。しかし足立さんはそれがピンと来なかったらしく、重宗和伸監督で映画をつくりたいがどうかという。戦争中つくられた「小島の春」その他、重宗さん(製作)の映画にはじつにいい味があり、その人がらも、アカデミアでのつきあいで私には好ましかった。そこで私は材料を探し、フィリピンのモンテンルパの収容所で、死刑の日を待っている日本人捕虜の生活を書いた単行本『残された人々』をとりあげてシナリオにする。新派新劇のヴェテラン総出演の豪華なキャストで、その点でも重宗さんの信用が大きくはたらいていた。作品は文部省の特選になったが、配給の話がうまく行かず、足立さんはそのため大変な打撃を受けることになり、それ以後また起ち上ることができないままに、世を去ってしまった。(「宿縁花柳章太郎」より)

キャストが豪華な割に、配給会社がなかなか決まらなかったのは、重い現実を下敷きにした作品で、娯楽的要素に乏しかったからのようです。しかし、どうにか大映が配給を引き受け、1953年7月22日に公開。折りしもその日は、元死刑囚の方たちが釈放され、日本に帰還した当日で、新聞も紙面で大きくそれを取り上げました。青江も釈放された人たちの出迎えに、横浜港まで行っています。

これだけタイムリーだと、映画の方も大入り満員を期待したくなりますが、結果は芳しくありませんでした。配給会社決定から公開までが2ヵ月と短く、充分な宣伝ができなかったのが大きな敗因のように思えますが、何より、宣伝予算が不足していたのでしょう。独立プロ製作の映画というのは、作品完成には何とかこぎつけても、その後の配給まで力が及ばず、惨憺たる結果に終わるということが多いのですが、その辺の事情は昔も今もあまり変わっていないようです(私自身も身に覚えがあるので、書いていて辛いものがあります)。足立欽一の逝去は公開の翌年ですから、やはり公開の失敗が身にこたえたのでしょう。

公開前日の朝日新聞に載った広告。個人的にはとなりの「さすらひの湖畔」も気になるところ(主演がキリヤマ隊長!)
いずれにしろ、青江が参加した数少ない劇映画です。どこかで観ることは出来ないものかと思って調べてみましたが、当然のことながらビデオ化、DVD化などは一切されていませんし、フィルムセンターの収蔵作品リストにも入っていません。製作元の重宗プロはもはや存在せず、最後に、大映映画作品の著作権を管理している角川映画に問い合わせてみたところ、「当方でも作品原版の所在はわかりません」との返答でした。差し当たって、プレスシートだけはコンテンツ事業部に保管されていたので、その画像を送ってもらったのですが、この幻の映画は、果たして今どこに眠っているのでしょう。どなたか、有力な情報がありましたらお教えいただきたいと思います。

なお、今年の9月12日に『戦場のメロディ 〜108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌〜 』というドキュメントドラマがフジテレビ系列で放送されました。歌手・渡辺はま子(演・薬師丸ひろ子)や教誨師・加賀尾秀忍(演・小日向文世)の尽力により、モンテンルパの死刑囚108人が釈放され日本の土を踏むまでが描かれており、不意打ちのような死刑執行や、オルガンを囲んで「あゝモンテンルパの夜は更けて」を刑務所内で歌うシーンなど、この映画と重なるところの多い作品でした。
1952年10月の青江の日記には、「渡辺はま子に交渉の件…日劇の楽屋に寄る。彼女丁度出番を終えたところなり。モンテンルパのこと話す。好意的な返事なり」という記述があり、その2日後には今度は彼女の事務所を訪ねていますから、映画の冒頭かエンディングで、渡辺はま子の歌う「あゝモンテンルパの夜は更けて」を使うという計画があったのかも知れません。
「モンテンルパ望郷の歌」
公開日:1953年7月22日 配給:大映
製作:重宗和伸 監督:村田武雄 脚本:青江舜二郎 撮影:杉本正二郎 音楽:津川主一
出演:芥川比呂志、杉村春子、小堀明男、荒木道子、佐々木孝丸、石黒達也、小堀誠
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