
今週の評伝は、写真は「雪の女王」ですが、中身は「一葉舟」事件の後日談です。やはり、なかなかこのネタから離れられません。というわけで、写真だけ掲載して内容についてはまったく言及できなかった「雪の女王」について、少しここでご紹介します。
「雪の女王」といえば、たぶん誰でもタイトルくらいは知っている、アンデルセンの有名な童話です。主な登場人物はカイ(男の子)とゲルダ(女の子)、そして雪の女王の3人ですが、ストーリーの中心は、雪の女王にさらわれたカイを取り戻すために、ゲルダが長い旅をし、さまざまな危険をくぐり抜ける部分で、さらわれたカイも、さらった雪の女王も、ほとんど出てきません。そしてラストは、苦難の旅を終え、やっと雪の女王の宮殿にゲルダがたどりつくと、雪の女王は外出中(おいおい)、それでゲルダはその涙でカイの凍った心を溶かし、正気を取り戻させてつれて帰ってめでたしめでたしという、何ともアンチクライマックスなお話しなのです。この手のストーリーの場合、ハリウッド映画やアニメやゲームなどでは、いろいろな苦難の末に、ラスボスのところに乗り込み、そこで最後の大立ち回りがあるのが「お約束」で、そこがまさに手に汗握るクライマックスなのですが、吟遊詩人たるアンデルセンは、そういった予定調和には興味がなかったのでしょうか。
数年前に、あの宮崎駿監督が影響を受けたという旧ソ連製作のアニメ「雪の女王」を見ました。この作品のゲルダはまさに「愛のために戦うヒロイン」といった趣で、ナウシカなんかを思わせる部分もあるのですが、それでもラスボスである雪の女王との対決シーンは、にらみあっているうちに女王が消えてしまうという、ごくごくあっけないものでした。とはいえ、原作には三者の直接対峙さえないことを考えると、ラストを盛り上げるための工夫はこらしていたというべきでしょう。それにしても、原作でもこのアニメでも、とにかくカイは「へたれ草食系男子」で、いいところがほとんどありません。こんな男のために、どうしてゲルダは命がけで旅をしてきたのか首をかしげてしまいます。
・以前「凍える鏡」との関連で書いたブログ
さて、そんな「雪の女王」を、青江はいかにアレンジしたのでしょうか。結論から言いますと、上に書いたいくつかの問題点が、かなりいい具合に脚色されていると私は感じました。作品のクライマックスで雪の女王の宮殿にたどりついたゲルダは、その涙でカイを正気に戻します(ここまでは原作どおり)。そしてカイは、かねて雪の女王から出されていた問題の答え(「永遠」という言葉)を自分で見つけだし、それを、外から戻ってきた女王に示すのです。「これがわかれば自由にしてあげる」と女王に言われていたからで、その約束どおり、女王は2人を解放します。はでなバトルはありませんが、理にかなったクライマックスですし、カイも充分に知的で魅力のある男の子として描かれ、これならゲルダや雪の女王が彼に好意を示したのも納得できます。
なお、「永遠」という言葉うんぬんというのは原作にもあるエピソードですが、原作では、正気に戻ったカイが嬉しくて踊り回り、そのあげく疲れて倒れた形がたまたま「永遠」という文字を綴っていた、という風になっており、しかも、そのあとに雪の女王も登場しないため、あまり、問題が解けたというカタルシスもありません。先ほど紹介した旧ソ連版のアニメでは、そもそもこの「永遠」の部分がすべてなくなっています。もっとも、これは旧ソ連版だけではなく、それ以外の児童向けの演劇、絵本などでも、ここは難解なので、ストーリーから省かれることが多かったようです。しかし青江にはそれが不満だったようで、劇団ひまわりの上演プログラムでも、「そこにあらわされているアンデルセンの思想は、いまでも、わたくしたちが生きてゆくために、いちばんたいせつなものなのです」と強調しています。
青江は児童劇の脚色も数多く手がけましたが、「雪の女王」は、私が知る限り、このジャンルの代表作の1本に数えていいと思います。あの泥沼の「一葉舟」事件のさ中、こういう丁寧な仕事をしていることに、あらためて敬服する次第です。
