2010年01月30日

青江脚色版「雪の女王」

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今週の評伝は、写真は「雪の女王」ですが、中身は「一葉舟」事件の後日談です。やはり、なかなかこのネタから離れられません。というわけで、写真だけ掲載して内容についてはまったく言及できなかった「雪の女王」について、少しここでご紹介します。

「雪の女王」といえば、たぶん誰でもタイトルくらいは知っている、アンデルセンの有名な童話です。主な登場人物はカイ(男の子)とゲルダ(女の子)、そして雪の女王の3人ですが、ストーリーの中心は、雪の女王にさらわれたカイを取り戻すために、ゲルダが長い旅をし、さまざまな危険をくぐり抜ける部分で、さらわれたカイも、さらった雪の女王も、ほとんど出てきません。そしてラストは、苦難の旅を終え、やっと雪の女王の宮殿にゲルダがたどりつくと、雪の女王は外出中(おいおい)、それでゲルダはその涙でカイの凍った心を溶かし、正気を取り戻させてつれて帰ってめでたしめでたしという、何ともアンチクライマックスなお話しなのです。この手のストーリーの場合、ハリウッド映画やアニメやゲームなどでは、いろいろな苦難の末に、ラスボスのところに乗り込み、そこで最後の大立ち回りがあるのが「お約束」で、そこがまさに手に汗握るクライマックスなのですが、吟遊詩人たるアンデルセンは、そういった予定調和には興味がなかったのでしょうか。

数年前に、あの宮崎駿監督が影響を受けたという旧ソ連製作のアニメ「雪の女王」を見ました。この作品のゲルダはまさに「愛のために戦うヒロイン」といった趣で、ナウシカなんかを思わせる部分もあるのですが、それでもラスボスである雪の女王との対決シーンは、にらみあっているうちに女王が消えてしまうという、ごくごくあっけないものでした。とはいえ、原作には三者の直接対峙さえないことを考えると、ラストを盛り上げるための工夫はこらしていたというべきでしょう。それにしても、原作でもこのアニメでも、とにかくカイは「へたれ草食系男子」で、いいところがほとんどありません。こんな男のために、どうしてゲルダは命がけで旅をしてきたのか首をかしげてしまいます。

・以前「凍える鏡」との関連で書いたブログ

さて、そんな「雪の女王」を、青江はいかにアレンジしたのでしょうか。結論から言いますと、上に書いたいくつかの問題点が、かなりいい具合に脚色されていると私は感じました。作品のクライマックスで雪の女王の宮殿にたどりついたゲルダは、その涙でカイを正気に戻します(ここまでは原作どおり)。そしてカイは、かねて雪の女王から出されていた問題の答え(「永遠」という言葉)を自分で見つけだし、それを、外から戻ってきた女王に示すのです。「これがわかれば自由にしてあげる」と女王に言われていたからで、その約束どおり、女王は2人を解放します。はでなバトルはありませんが、理にかなったクライマックスですし、カイも充分に知的で魅力のある男の子として描かれ、これならゲルダや雪の女王が彼に好意を示したのも納得できます。

なお、「永遠」という言葉うんぬんというのは原作にもあるエピソードですが、原作では、正気に戻ったカイが嬉しくて踊り回り、そのあげく疲れて倒れた形がたまたま「永遠」という文字を綴っていた、という風になっており、しかも、そのあとに雪の女王も登場しないため、あまり、問題が解けたというカタルシスもありません。先ほど紹介した旧ソ連版のアニメでは、そもそもこの「永遠」の部分がすべてなくなっています。もっとも、これは旧ソ連版だけではなく、それ以外の児童向けの演劇、絵本などでも、ここは難解なので、ストーリーから省かれることが多かったようです。しかし青江にはそれが不満だったようで、劇団ひまわりの上演プログラムでも、「そこにあらわされているアンデルセンの思想は、いまでも、わたくしたちが生きてゆくために、いちばんたいせつなものなのです」と強調しています。

青江は児童劇の脚色も数多く手がけましたが、「雪の女王」は、私が知る限り、このジャンルの代表作の1本に数えていいと思います。あの泥沼の「一葉舟」事件のさ中、こういう丁寧な仕事をしていることに、あらためて敬服する次第です。

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2010年01月23日

やられた方は忘れない

sojo.jpg 東京地裁に提出した訴状(1959年11月13日付)


本日掲載分では、「一葉舟」事件の一応の解決までを書きました。

青江が東京地裁に提訴してから示談が成立するまでの約一カ月、久保田万太郎は民事裁判の被告人だったわけですが、久保田側の人間が書いた伝記などには、そのあたりの状況が正確に書かれていません。後藤杜三は「裁判沙汰になりかけた」と書いていますが、青江は実際に訴訟を起こしているので、「なりかけた」は誤りです。当時のことをきちんと記した刊行物がほとんどないため、「事実の記録」として今回はあえて活字にしました。同じように、久保田の死後刊行された全15巻におよぶ『久保田万太郎全集』にも、「一葉伝」は入っていません。莟会のパンフレットでは「すべては自分の創意である」と自信満々に長文を載せ、側近も「あれは久保田作品といっていいもの」などと雑誌で発言しながら、最終的には青江の作であることを認めざるを得なくなり、あとは「なかったこと」です。

「盗用した側」と「された側」とでは、圧倒的に「された側」がダメージを蒙ることが多いようで、実にやり切れません。「した側」は、他人の作品を奪っておいて、ばれなければ知らん顔、ばれても形式だけの謝罪をして、あとはやはり知らん顔です。そしてしばらく経てば、そんなことを自分がしたのかさえ、忘れてしまうように思えます。「された側」は、それを忘れることなど到底できないのですが。

しかしこれは盗用事件に限らず、およそ事件と呼ばれるものすべての被害者と加害者について言えることのようです。アメリカは歴史が続く限り真珠湾を忘れないでしょうし、日本が広島と長崎を忘れることもないでしょう。被害者感情というものに、時効はないのです。今日の朝刊で、足利の女児殺害事件で無期懲役とされ、その後釈放された人が、当時の検事に対して「謝って欲しい」「一生許さない」と発言したというのを読んで、被害者の感情というのは、まさにこういうものだろうと思いました(しかし、この元検事が公の場で謝罪した方がいいかといえば、そうとも言い切れないのですが…)。

「一葉舟」事件についても、もう50年以上も前のことで、私などはまだ生まれていなかったにも関わらず、当時のことを調べれば調べるほど、久保田やその側近の行動に怒りがこみ上げて来ます。家族というのは、遺品や財産といった物理的なものだけでなく、その体験や感情までも「相続」するもののようです。私が脚本家ではなく監督というポジションを選択したのも、「脚本を書いて現場に渡すだけでは、どんな使われ方をされるかわかったものではない」と、実にこの事件から学んだからでもあります。だから、これまで公開した映画作品は、すべて、私が一人で脚本を書き、現場で演出し、編集までを手がけています。青江の人生から教わった大きな教訓といえるかも知れません。

というわけで、連載では努めて感情を抑えた書き方をしているので、この欄で少しガス抜きをさせていただきました。お付き合いいただきまして恐縮です。来週以降は、ぼちぼち新展開を迎える予定です。
posted by 室長 at 12:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月16日

「一葉舟」事件に突入

評伝は今週から「一葉舟」に関する著作権侵害事件に突入です。50年以上前のこととはいえ、青江の劇作家生命をなかば奪うことになった由々しき出来事であり、身内としては非常に気が重く、筆も重いです。

この事件での青江は被害者であり、評伝も青江側から描くため、どうしても客観性を欠いたものになってしまう可能性は高いのですが、できるだけ中道を行くために、青江自身が事件について書き残した文章だけではなく、事件当時の新聞や雑誌の記事、1939年初演時のパンフや1959年の「一葉伝」パンフ(莟会と新派公演の両方)、さらには東京地方裁判所に提出した訴状など、なるべく多くの資料に当たるようにしています。

上記のほかに、久保田万太郎側の人間が事件のことを記した書籍類がないか探してみましたが、久保田側にとってあれは「なかったこと」にされているためか、あまり収穫はありませんでした。戸板康二の『久保田万太郎』と後藤杜三の『わが久保田万太郎』では、ごく簡単に事件について触れていましたが、どちらも本質に迫るものではなく、後藤に至っては「松竹側の手落ちであったのだろうが…」と、まるで久保田に責任はなかったような書き方です。このように物事というのは、常に見る角度によってバイアスがかかってしまうので、残念ながら、完全な中道というのは難しいかも知れません。

なお、この事件には一切触れられていなかったものの、川口松太郎の書いた『久保田万太郎と私』という本は予想外に面白く、そんなつもりはなかったのに、一気に読了してしまいました。さすが自ら大衆作家を任ずる川口松太郎、文章に有無を言わさぬ吸引力があるのです。この本には、川口が16歳の時に26歳の久保田に弟子入りし、以来半世紀近くにおよんだ2人の交遊が詳しく書かれています。これを読むと、久保田という人間は、「好きな相手をいたぶって楽しむ」という、あまり人間として高尚とは言えない趣味を持っていたことがわかります。川口自身、何度もそういう仕打ちをうけ、その度に逆上して義絶を宣言したようです(しかし結局は、時間とともに寄りを戻すのですが…)。青江に対する理不尽な仕打ちも、そういった久保田の性癖に由来していると思えなくもありません。苦労人の川口はそれに堪えて、最後まで久保田との付き合いを続けますが、愚直で融通の利かない青江は、それを真に受けて宣戦布告をした、というようにも受け取れるのです。
posted by 室長 at 14:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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