2011年02月19日

小幡欣治さんのこと

訃報:小幡欣治さん 82歳=劇作家、演出家
 「三婆(さんばば)」など商業演劇を中心に優れた作品を書いた劇作家で演出家の小幡欣治(おばた・きんじ)さんが17日午後10時3分、肺がんのため東京都内の病院で死去。82歳。葬儀は24日午前9時半、同品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場。喪主は長男聡史(さとし)さん。

 東京生まれ。工業高校卒業後、悲劇喜劇戯曲研究会に参加し、1950年に第1作を発表。56年の「畸型児(きけいじ)」で新劇戯曲賞(現・岸田戯曲賞)を受賞した。65年に東宝と専属契約し、「あかさたな」などで東宝現代劇の主柱となる。「安来節の女」「喜劇隣人戦争」などが高い評価を受けた。

 その後東宝を離れ、劇団民芸などに作品を提供し、晩年まで旺盛な活動を展開した。

 88年に「恍惚(こうこつ)の人」「夢の宴」で菊田一夫演劇大賞、07年に朝日舞台芸術賞特別賞と読売演劇大賞芸術栄誉賞をダブル受賞。10年に「神戸北ホテル」で第13回鶴屋南北戯曲賞を受賞。同10月に民芸が上演した「どろんどろん」が最後の作品になった。代表作に「熊楠の家」「喜劇の殿さん」など。有吉佐和子作品を舞台化した「三婆」は73年の芸術座初演以来、昨年で上演回数900回を超えた。


小幡欣治さんの訃報は、最初にネットで知りました。私はほんの数回しかお目にかかったことがありませんが、上の記事にもあるように、小幡さんは雑誌『悲劇喜劇』(早川書房)を母体として1949年に始められた戯曲研究会のメンバーで、その研究会で青江は一年以上にわたって劇作法のゼミナールを行っていました。以下に引用するのは、その講義内容を一冊にまとめた『戯曲の設計』の「あとがき」の一部です。

 このゼミナアルは、一九五五年十月から、約一年半近くつづけられ、その間、一人の脱落者もなく、毎回十人近くのメンバアが出席し、いつも同じような熱っぼさと、したしさのうちに終始した。会員諸君にはどうであったか知らないが、私にはとにかくたいへん勉強になり、つくづく、やってよかったと思う。ひとえに、戯曲研究会のひとたちのおかげである。話はつとめて具体的にと心がけたが、何しろ制作というしごとは、工員に旋盤の使い方を教えるというふうには具体的かつ精確にはゆかず、苦労したわりには効果があがっていないようなはがゆさを、いまだに感じている。もともと私の性質は、「便利な手引書」をこさえるには向いていないので、そういうつもりで読まれるかたにはたいへんお気の毒だ。その代り、じっくりと、実例を比較されたり、「戯曲線」を通じて引用された作品そのものにぶつかって見るというようなかたには、ある程度プラスが残ると信じている。(中略)
 終りに戯曲研究会のひとたちの名をかかげて本書が成った感謝のしるしとしたい。木下博民、小幡欣治、有高扶桑、渡辺桂司、中田稔、日野千賀子、浜崎尋美、長谷川行勇、木谷茂生、紀井具治、蜂谷緑、早坂久子(一九五六年当時)の諸君である。早坂久子さんにはその外にも、編集その他で格別お世話になった。
 一九五八年五月
青江舜二郎


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戯曲研究会の面々。右から2人目が小幡欣治さん、その左が青江(1958年)

私は2009年の2月、青江の評伝を書くにあたり、小幡さんにその当時のエピソードをうかがうため電話インタビューを試みました。ただ、その時は新作執筆の真っ最中とのことで、ゆっくりお話を聴くことが出来ずに終わったのが悔やまれます。以下はその時の小幡さんの発言をまとめたものです。

 研究会での青江先生の講義で印象に残っているのは「劇的境遇三十六」ですね。古今東西の戯曲も、そのエッセンスを取り出せば36通りしかないという…。あれは、実際に戯曲を書く上でずいぶん役に立ちました。研究会のあとは、早川書房の近くの喫茶店でみんなでお茶を飲んだりしましたが、どんな話をしたかは、残念ながらあんまり覚えていません(苦笑)。お酒を飲みに行ったりは、ほとんどしていないです。みんなお金がなかったから。青江先生の印象は、作家というよりは学者タイプだなと当時から感じていました。だから、晩年は評伝を書く方向に行かれて、正解だったんじゃないでしょうか。私も一回、(菊田一夫の)評伝を書いてみましたけど、資料集めやら何やら、地道な作業が多くて、戯曲の何倍も大変でした。あんなしんどいものはもう二度とやりたくない(笑)。青江先生はそれをずっとやられたんだから大したものだと思います。そういうのが体質に合っていたんでしょうね。


この時小幡さんがお書きになっていたのが、昨年鶴屋南北戯曲賞を受けた「神戸北ホテル」です。私も劇団民藝の舞台を拝見しましたが、奈良岡朋子さんのコミカルかつ哀愁をたたえたヒロイン像が新鮮な印象を残した一作でした。思えば、劇団民藝制作部の菅野和子さんを紹介してくれたのも小幡さんで、その口添えもあって、「法隆寺」初稿やスチール写真の借り出し、そしてインタビューなどがスムーズに進んだのでした。

小幡さんといえば、もうひとつ忘れられないことがあります。以前自分のサイトにも書きましたが、木口和夫さんという青江の鎌倉アカデミアでの教え子が2007年1月に亡くなった時のことです。木口さんは『悲劇喜劇』の編集部にいたことがあり、小幡さんとは古い友人同士でした。その小幡さんが告別式で述べた弔辞が強烈でした。

「若いころ、君からはずいぶんと金を借りた。それを返したという記憶はない。君にはどれだけ世話になったかわからない。君は劇作を志したこともあったが、商業演劇の世界に行かないで本当によかった。君のような正義感は、魑魅魍魎のうごめく演劇界には到底いられないだろうから…」
大変に思いのこもった、「生の言葉」の連続で、木口さんの人柄を知っている私には強く胸にこたえました。と同時に後半の、「君のような正義感は…」という部分は、そのまま青江にも当てはまるような気がしたものです。電話インタビューでの小幡さんの青江評と合わせると、興味深いものがあります。

4年前にはともに木口さんを送り、2年前には電話でお話をした方が、もはやこの世のどこにも存在しない――諸行無常です。とはいえ、生身の肉体とは違い、産み落とした作品は永遠です。魑魅魍魎うごめく世界の中で生き、最後まで演劇に添い遂げた小幡欣治さんに敬意を表するとともに、ご冥福を祈りたいと思います。

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青江の生誕百年CD/DVDをお贈りした折の御礼状。「城井友治」は木口さんのペンネーム(2005年7月8日消印)
posted by 室長 at 17:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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