そしてつい先日、守屋さんから、改めて「干拓」についての、大変読みごたえのある感想文が届きましたので、ご本人の許可を得て、その一部をここでご紹介したいと思います。単行本化されていないため、「干拓」はなかなか一般にはお読みいただけませんが、いただいた感想文は、青江の「干拓」そのもの以上に「干拓」の精神を的確に言い表していると思えたため、公開を決めた次第です。
最初読んだ時は、たとえ現地の者であっても、解りかねる、次元の異なる、また時空を越える内容が多く、大変難しい作品でした。しかし何度も読んでいるうち、作家の生涯と照らし合わせてみて、見えてくるものがあり、大変濃厚な内容を含んだ作品であることが、ジワジワ感じさせられました。
彼(青江)は故郷へのなつかしさの余りの出来心で潟を訪れた訳でも、干拓という事業に作家魂がにわかにゆすぶられた訳でもないのだと私は思いました。千葉治平氏は、著書の中で、八郎潟干拓は日本の戦後史を凝縮したものだと言っても過言ではないと述べています。それ程の国家的意味のある事柄の奥行きを青江氏は知らなかったはずがありません。この問題が取り沙汰された頃から微に入り、細に入り情報を追い求め、思考していたに違いありません。なぜならこの作品にはいたる所に、自らの歩みの軌跡を検証し、これからの日本の在り方を問うている所があります。
若者たちが、この厳寒の地で、そのエネルギーを燃やしている様に感動しつつ、一方で、かつて関与した満蒙開拓地での経験を重ね合わせている個所があります。何十キロも続く大きなケシの花畑を見て、日本国家がしかけている阿片政策の下心を読み、ぞっとしてひっくり返りそうになるのです。八郎潟の干拓地に色あざやかな家が建ち、マイカーが行きかい、レジャーや快適さを売りにしたパンフレットを見ると、満蒙開拓地のあのケシの花畑を思い起すのです。日本の国に咲く、あだ花でなければ良いがと懸念しているのです。そこでその事業の理念は一体何かと作者は声高に問うています。
モデル農村は、(入植から)半世紀を経た今、迷える農商村です。クワとソロバンをうまく使いこなせない者は、すぐに敗者になります。また周辺住民から見ると、「見せる農業付き観光地」にも見えます。いや、見えるばかりでなく、私自身近場で旅行気分を無邪気に楽しんでいる一人です。しかしそれよりもおいしくて安全な水とピチピチした魚を食べたいというのが周辺の住民の本音ではないでしょうか。そしてあの海のような湖の原風景を日々なつかしんでいる一人です。
住吉という男に、安保闘争の事を言わせている下りがありますが、この視点は今の日本にとって最もタイムリーな語りかけのように思います。あの運動の挫折が日本の方向を決し、真の敗北へつながったことは本当に現在証明されているように思います。彼はこの時、政治的敗北を言っているのではなく、精神的敗北も含めた敗北を言っていたように思います。「あのもうれつにふくれあがった革新の気運が、決定的な一夜があけると、まるでゴム風船のようにスーッとしぼんで行った」と表現しています。もっと言えば、理念を模索する力を失った瞬間でした。その後はほとんどの若者は宗旨変えして「理念の旗」を「利益の旗」にとりかえて新しい道を歩み出していきました。利益を得る快感は阿片のように我々の国をバラ色に彩っていた事を、我々は今気付いて腰を抜かしているような日々です。
一方、時の流れに棹ささず、頑なに理念を追い求めた作者(青江)の人生は修羅でした。しかし、作品の中に表現されている数々のセリフの中に、時空を超えて響いてくる予言者的思考の確かさを感じ驚きです。
現代人は、時の業を永遠なるものへつなげようとする視点が欠けているのだと思いました。自分自身、厚化粧した今という時を楽しみ、ただあだ花≠追い求める人生でなかったかと深く反省させられました。
破壊と創造、憎しみと愛、不信仰と信仰のフィルターを通して、永遠なるものをさがし求める作者のあくなき求道の魂は決して埋もれることなく、逆にこれから光があてられるのではと思っています。幾多の技術、労力等が注がれた干拓事業、その理念は何だったのか、それが永遠性のあるものだったのかという問いが、この作品の大きなテーマのように思いました。
この大きなテーマに向かって、「私も戦ってきた。そのため、さんざん人を傷つけ、自らも傷ついた。でも、愛し続け求め続けた人生だったことを、私の作品から読みとってくれ」と叫んでいるように思えました。修羅を生きてきた自分の中に、願わくは永遠につながるものを読みとってくれという願いをもちながら旅立っていったように思います。守屋ミヨ子(秋田県南秋田郡八郎潟町)
以上は抜粋で、全体はこの倍近くありました。大変に熱のこもった文章で、まさに青江の魂と守屋さんの魂が共振しているという感触が伝わって来ました。作品が時間を超えて、読者と心を通わせる様子を目の当たりにした思いでした。
なお、作品中で「真の敗北」として語られていた1960年の日米安保闘争ですが、青江自身も、明確に安保改定反対の意志を表明し、若い学生たちに混じって何回もデモ行進に参加していました。「日本国土の安全は、国民にとってまず考えなければならない問題だ。とすれば、まずそれが、日本の立場において自由に、独立国の独立人の尊厳において′沒「されるべきではないか。それをいいかげんにしておいて、政府がアメリカと取引するのはドレイ的」であると雑誌のコラムに書いています(『若い芸術』1960年7月号)。
デモ隊が国会に突入し、樺美智子さんが死亡した、あの6月15日から間もなく満50年。青江の問いかけは、今も続いているのです。