2015年09月20日

青江舜二郎が見た「60年安保」

大変久しぶりの青江ブログの更新である。

9月19日未明、安全保障関連法案が参議院本会議において賛成多数で可決され、成立した。
大変、もやもやしたものが心に残っているが、うまく言葉にならない。そこで、今回の法案を語る時よく引き合いに出される「60年安保」の成立前後の状況を、青江舜二郎はどう見ていたのかを、活字になっているものから紹介してみたい。

 安保条約問題がとうとうこじれにこじれてしまった。
 私は、はじめは何となく反対(大きらいな岸内閣のやることだから)、そのうちに、これではいけないと、さいわい知りあいに保守党の議員が何人かいるので、会合のたびに内容をたずねた。
「いままでは無期限だった。それがとにかく十年という期限つきになったのだからそれだけでも進歩じゃないか。自由だ平和だとあなたたちはおっしゃるが、いま日本の安全が、アメリカの保護なくしてささえられているとそれではお考えか。アメリカがいなくなったその日からソ連が暴力的に侵入してくることはいままでのインチキなやり方からいってまちがいない。そのことを権力亡者の左翼はべつとして一般国民が歓迎しているとでも思っているのか」……

 そういわれて見ると、なるほどと思う。恐らく、この議会が解散になり、選挙がおこなわれても、やはり保守党が優勢で、社会党が天下をとることはなさそうだ(にもかかわらず、なぜ解散をしないのだろう)。そしてまたこの問題が論議され、いよいよ本決まりになる。それならそれでいいか? ……となるとやはり釈然としない。
 第一、私には、国民の総意がどこにあるかもたしかめないうちに、政府が勝手にアメリカへ行って何かを決め、帰って来てそれを議会にはかるという順序がわからないのだ。法律ではどう決められているか知らないが、民主国家の国民常識からいって逆だと思う。社会党なんかでも、藤山や岸があちらへゆく前にもっとそのことで手を尽くすべきではなかったか。

 日本国土の安全は、国民にとってまず考えなければならない問題だ。――とすれば、まずそれが、日本の立場において自由に、独立国の独立人の尊厳において′沒「されるべきではないか。それをいいかげんにしておいて、政府がアメリカと取引するのもドレイ的なら、帰ってくると、反対党がそのことの是非よりも、むしろ反米≠ニいう立場においてさわぎ立てるのも多分にかたよっている。社会党がアメリカ大使館へ行って、アイゼンハワー大統領に来てもらいたくないと申し入れたなど醜態のかぎりだ。相手がフルシチョフならグウの音も出ないじゃないか。一体、議員の社会的作法をどのように心得ているか。しかもまるで筋をとりちがえている。問題はアメリカではない。日本なのだ。アイゼンハワーに何の罪がある。ゆるせないのは彼でなくその前にペコペコして、何事かをとり決めて来たやつらだ。彼らは自分らの利欲のためにそれをなし、それゆえに、条約の内容を、ほんとうに私たちに説明することができない。それではそれに反対する社会党にどんなよい代案があるというのか。いまのままでは、私たち日本人は、永久にドレイ的境遇からぬけ出すことはできないのだ。

 私は、改定安保に反対の意志を表明し、デモにも参加した。しかし多少ほかの人とちがう点があるのではないかと思う。残念ながら私には、改定安保の内容が、私の努力にもかかわらず、いまだにのみこめないので、確信をもって賛成もしくは反対ができない。だから私は、いま早急に、それをおし通すことに反対するのであって、やがて、改定安保がよいとわかれば、賛成するかも知れないのである。しかしいまのままでは、ぜったいにがまんがならない。

上の文章は、雑誌『若い芸術』1960年7月号掲載のコラム「はくしょん記」からの抜粋である。書かれたのは成立直前の同年6月上旬ごろと思われるが、あまりにも今回の法案をめぐる状況と酷似しており、55年前の文章を読んでいる気がしない。まさに「歴史は繰り返す」である。野党にきちんとした代案がないこと、国民への説明が足りないことも同じだし、何より「国民の総意がどこにあるかもたしかめないうちに、政府が勝手にアメリカへ行って何かを決め、帰って来てそれを議会にはかる」というやり方が、そっくりそのままであることに驚かされる。55年が過ぎても、日本という国の「ドレイ的境遇」は少しも変わっていない。

次に取り上げるのは、この4年後の1964年に執筆された「干拓」という長編戯曲の一場面。掲載誌は『劇と評論』1968年秋季号。
劇中の住吉は20代なかばの建設所員、北見は初老の詩人である。

住吉 ぼくが学生の頃、あの安保斗争がおこりましてね、ぼくはやはり何も彼も放り出してあの運動に熱中しました。あれでもって政府をへこませることができれば、日本はきっと、はげしく、よくなると、固く信じていたのです。しかし結果は……

北見 ああ、あれはわしも参加した。若い連中とスクラムを組んで、何べんもデモ行進なんかやって……

住吉 ぼくはあの運動の挫折が、日本の方向を決したと思っているんです。日本の敗北を致命的にしたのは敗戦ではなくて、あの斗争ではなかったでしょうか。あのもうれつにふくれあがった革新の気運が、決定的な一夜があけると、まるでゴム風船のようにスーッとしぼんで行った。そして、ぼくは……それ以来、心のどっかがいたんでしまって。仲間はみんなあのショックからまもなく立ちなおったようでしたが、ぼくは……まだだめなんです。……何か、決定的な瞬間がせまってくると、ぼくは急に不安になってからだが動かなくなる。また何も彼もだめになるんじゃないかという気持がして……

今回の燃え上がったデモも、やはり「ゴム風船のようにスーッと」終息していくのだろうか。
posted by 室長 at 13:48| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月30日

青江舜二郎の評伝『龍の星霜』完成!

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2009年の春から1年にわたって秋田魁新報に連載した青江舜二郎の評伝が、大幅な加筆・修正を経て、ついに刊行されました。タイトルは『龍の星霜 異端の劇作家 青江舜二郎』(春風社刊・1500円)。「龍」は青江の干支である辰を表わしています。

校正を終えた直後に東日本大震災が発生したため、一時は刊行の大幅な遅れも予想されましたが、どうにか、青江の命日である今日(4月30日)、こうしてお披露目できることとなりました。名装丁家・毛利一枝さんによる、星雲を思わせる神秘的な表紙カバー。そして帯には、若手論客として注目を集める北海道大学准教授・中島岳志さんの推薦文が。なかなか存在感のある一冊に仕上がったのではないかと思います。

詳しい内容等については、近日中に電子資料室の方にも情報をアップする予定です。
posted by 室長 at 21:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月19日

小幡欣治さんのこと

訃報:小幡欣治さん 82歳=劇作家、演出家
 「三婆(さんばば)」など商業演劇を中心に優れた作品を書いた劇作家で演出家の小幡欣治(おばた・きんじ)さんが17日午後10時3分、肺がんのため東京都内の病院で死去。82歳。葬儀は24日午前9時半、同品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場。喪主は長男聡史(さとし)さん。

 東京生まれ。工業高校卒業後、悲劇喜劇戯曲研究会に参加し、1950年に第1作を発表。56年の「畸型児(きけいじ)」で新劇戯曲賞(現・岸田戯曲賞)を受賞した。65年に東宝と専属契約し、「あかさたな」などで東宝現代劇の主柱となる。「安来節の女」「喜劇隣人戦争」などが高い評価を受けた。

 その後東宝を離れ、劇団民芸などに作品を提供し、晩年まで旺盛な活動を展開した。

 88年に「恍惚(こうこつ)の人」「夢の宴」で菊田一夫演劇大賞、07年に朝日舞台芸術賞特別賞と読売演劇大賞芸術栄誉賞をダブル受賞。10年に「神戸北ホテル」で第13回鶴屋南北戯曲賞を受賞。同10月に民芸が上演した「どろんどろん」が最後の作品になった。代表作に「熊楠の家」「喜劇の殿さん」など。有吉佐和子作品を舞台化した「三婆」は73年の芸術座初演以来、昨年で上演回数900回を超えた。


小幡欣治さんの訃報は、最初にネットで知りました。私はほんの数回しかお目にかかったことがありませんが、上の記事にもあるように、小幡さんは雑誌『悲劇喜劇』(早川書房)を母体として1949年に始められた戯曲研究会のメンバーで、その研究会で青江は一年以上にわたって劇作法のゼミナールを行っていました。以下に引用するのは、その講義内容を一冊にまとめた『戯曲の設計』の「あとがき」の一部です。

 このゼミナアルは、一九五五年十月から、約一年半近くつづけられ、その間、一人の脱落者もなく、毎回十人近くのメンバアが出席し、いつも同じような熱っぼさと、したしさのうちに終始した。会員諸君にはどうであったか知らないが、私にはとにかくたいへん勉強になり、つくづく、やってよかったと思う。ひとえに、戯曲研究会のひとたちのおかげである。話はつとめて具体的にと心がけたが、何しろ制作というしごとは、工員に旋盤の使い方を教えるというふうには具体的かつ精確にはゆかず、苦労したわりには効果があがっていないようなはがゆさを、いまだに感じている。もともと私の性質は、「便利な手引書」をこさえるには向いていないので、そういうつもりで読まれるかたにはたいへんお気の毒だ。その代り、じっくりと、実例を比較されたり、「戯曲線」を通じて引用された作品そのものにぶつかって見るというようなかたには、ある程度プラスが残ると信じている。(中略)
 終りに戯曲研究会のひとたちの名をかかげて本書が成った感謝のしるしとしたい。木下博民、小幡欣治、有高扶桑、渡辺桂司、中田稔、日野千賀子、浜崎尋美、長谷川行勇、木谷茂生、紀井具治、蜂谷緑、早坂久子(一九五六年当時)の諸君である。早坂久子さんにはその外にも、編集その他で格別お世話になった。
 一九五八年五月
青江舜二郎


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戯曲研究会の面々。右から2人目が小幡欣治さん、その左が青江(1958年)

私は2009年の2月、青江の評伝を書くにあたり、小幡さんにその当時のエピソードをうかがうため電話インタビューを試みました。ただ、その時は新作執筆の真っ最中とのことで、ゆっくりお話を聴くことが出来ずに終わったのが悔やまれます。以下はその時の小幡さんの発言をまとめたものです。

 研究会での青江先生の講義で印象に残っているのは「劇的境遇三十六」ですね。古今東西の戯曲も、そのエッセンスを取り出せば36通りしかないという…。あれは、実際に戯曲を書く上でずいぶん役に立ちました。研究会のあとは、早川書房の近くの喫茶店でみんなでお茶を飲んだりしましたが、どんな話をしたかは、残念ながらあんまり覚えていません(苦笑)。お酒を飲みに行ったりは、ほとんどしていないです。みんなお金がなかったから。青江先生の印象は、作家というよりは学者タイプだなと当時から感じていました。だから、晩年は評伝を書く方向に行かれて、正解だったんじゃないでしょうか。私も一回、(菊田一夫の)評伝を書いてみましたけど、資料集めやら何やら、地道な作業が多くて、戯曲の何倍も大変でした。あんなしんどいものはもう二度とやりたくない(笑)。青江先生はそれをずっとやられたんだから大したものだと思います。そういうのが体質に合っていたんでしょうね。


この時小幡さんがお書きになっていたのが、昨年鶴屋南北戯曲賞を受けた「神戸北ホテル」です。私も劇団民藝の舞台を拝見しましたが、奈良岡朋子さんのコミカルかつ哀愁をたたえたヒロイン像が新鮮な印象を残した一作でした。思えば、劇団民藝制作部の菅野和子さんを紹介してくれたのも小幡さんで、その口添えもあって、「法隆寺」初稿やスチール写真の借り出し、そしてインタビューなどがスムーズに進んだのでした。

小幡さんといえば、もうひとつ忘れられないことがあります。以前自分のサイトにも書きましたが、木口和夫さんという青江の鎌倉アカデミアでの教え子が2007年1月に亡くなった時のことです。木口さんは『悲劇喜劇』の編集部にいたことがあり、小幡さんとは古い友人同士でした。その小幡さんが告別式で述べた弔辞が強烈でした。

「若いころ、君からはずいぶんと金を借りた。それを返したという記憶はない。君にはどれだけ世話になったかわからない。君は劇作を志したこともあったが、商業演劇の世界に行かないで本当によかった。君のような正義感は、魑魅魍魎のうごめく演劇界には到底いられないだろうから…」
大変に思いのこもった、「生の言葉」の連続で、木口さんの人柄を知っている私には強く胸にこたえました。と同時に後半の、「君のような正義感は…」という部分は、そのまま青江にも当てはまるような気がしたものです。電話インタビューでの小幡さんの青江評と合わせると、興味深いものがあります。

4年前にはともに木口さんを送り、2年前には電話でお話をした方が、もはやこの世のどこにも存在しない――諸行無常です。とはいえ、生身の肉体とは違い、産み落とした作品は永遠です。魑魅魍魎うごめく世界の中で生き、最後まで演劇に添い遂げた小幡欣治さんに敬意を表するとともに、ご冥福を祈りたいと思います。

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青江の生誕百年CD/DVDをお贈りした折の御礼状。「城井友治」は木口さんのペンネーム(2005年7月8日消印)
posted by 室長 at 17:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月20日

平城遷都1300年

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劇団民藝「法隆寺」より。奈良岡朋子(左)と山内明(1958)

今年は平城遷都1300年に当たり、奈良は大変なにぎわいのようです。東京でも現在、三井記念美術館で「奈良の古寺と仏像 〜會津八一のうたにのせて〜」という展覧会が行われており、先日、それを観に行って来ました。その時の様子はもうひとつのブログに書きましたので、詳しくはそちらをご覧下さい。
この記念すべき年に、青江舜二郎の代表戯曲「法隆寺」が刊行されたというのは、偶然といえば偶然ですが、その一方、天の配剤のようにも思え、何かしらの感慨を覚えずにはいられません。展覧会には、作品に登場する夢殿の救世観音はさすがに出品されていませんでしたが、奈良時代前期に作られた夢違観音(法隆寺所蔵・国宝)がメインのひとつとして展示されていたので、心でそっと手を合わせ、刊行のご報告をして来ました。

さて、単行本『法隆寺』の巻頭グラビアは、劇団民藝からお借りした舞台写真を使用していますが、青江の手元にも、おそらくゲネプロの時に撮ったと思われる多数の白黒ネガが残されていました。それを新たにプリントしたところ、劇団には残っていなかった場面ショットも多数確認されましたので、劇団提供の写真と合わせ、その一部を公開したいと思います。滝沢修をはじめ、大滝秀治、佐野浅夫、佐々木すみ江、奈良岡朋子、北林谷栄など、名優揃い踏みの貴重な記録写真です。

こちらからどうぞ→ 法隆寺アルバム
posted by 室長 at 17:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月12日

「干拓」と安保闘争

久しぶりの更新です。以前、青江の長編戯曲「干拓」を評伝(第43回・2月6日掲載)で紹介したところ、それを見た八郎潟在住の読者の方(守屋ミヨ子さん)から、是非読んでみたいというお電話が秋田魁新報の文化部に入ったという話をこのブログに書きました。そこで守屋さんに「干拓」のコピーをお送りしたところ、ご丁寧な御礼のお手紙をいただき、それがきっかけで、3月に現地でお目にかかって、大潟村周辺を案内していただいたという話も載せました。
そしてつい先日、守屋さんから、改めて「干拓」についての、大変読みごたえのある感想文が届きましたので、ご本人の許可を得て、その一部をここでご紹介したいと思います。単行本化されていないため、「干拓」はなかなか一般にはお読みいただけませんが、いただいた感想文は、青江の「干拓」そのもの以上に「干拓」の精神を的確に言い表していると思えたため、公開を決めた次第です。

 最初読んだ時は、たとえ現地の者であっても、解りかねる、次元の異なる、また時空を越える内容が多く、大変難しい作品でした。しかし何度も読んでいるうち、作家の生涯と照らし合わせてみて、見えてくるものがあり、大変濃厚な内容を含んだ作品であることが、ジワジワ感じさせられました。

 彼(青江)は故郷へのなつかしさの余りの出来心で潟を訪れた訳でも、干拓という事業に作家魂がにわかにゆすぶられた訳でもないのだと私は思いました。千葉治平氏は、著書の中で、八郎潟干拓は日本の戦後史を凝縮したものだと言っても過言ではないと述べています。それ程の国家的意味のある事柄の奥行きを青江氏は知らなかったはずがありません。この問題が取り沙汰された頃から微に入り、細に入り情報を追い求め、思考していたに違いありません。なぜならこの作品にはいたる所に、自らの歩みの軌跡を検証し、これからの日本の在り方を問うている所があります。

 若者たちが、この厳寒の地で、そのエネルギーを燃やしている様に感動しつつ、一方で、かつて関与した満蒙開拓地での経験を重ね合わせている個所があります。何十キロも続く大きなケシの花畑を見て、日本国家がしかけている阿片政策の下心を読み、ぞっとしてひっくり返りそうになるのです。八郎潟の干拓地に色あざやかな家が建ち、マイカーが行きかい、レジャーや快適さを売りにしたパンフレットを見ると、満蒙開拓地のあのケシの花畑を思い起すのです。日本の国に咲く、あだ花でなければ良いがと懸念しているのです。そこでその事業の理念は一体何かと作者は声高に問うています。

 モデル農村は、(入植から)半世紀を経た今、迷える農商村です。クワとソロバンをうまく使いこなせない者は、すぐに敗者になります。また周辺住民から見ると、「見せる農業付き観光地」にも見えます。いや、見えるばかりでなく、私自身近場で旅行気分を無邪気に楽しんでいる一人です。しかしそれよりもおいしくて安全な水とピチピチした魚を食べたいというのが周辺の住民の本音ではないでしょうか。そしてあの海のような湖の原風景を日々なつかしんでいる一人です。

 住吉という男に、安保闘争の事を言わせている下りがありますが、この視点は今の日本にとって最もタイムリーな語りかけのように思います。あの運動の挫折が日本の方向を決し、真の敗北へつながったことは本当に現在証明されているように思います。彼はこの時、政治的敗北を言っているのではなく、精神的敗北も含めた敗北を言っていたように思います。「あのもうれつにふくれあがった革新の気運が、決定的な一夜があけると、まるでゴム風船のようにスーッとしぼんで行った」と表現しています。もっと言えば、理念を模索する力を失った瞬間でした。その後はほとんどの若者は宗旨変えして「理念の旗」を「利益の旗」にとりかえて新しい道を歩み出していきました。利益を得る快感は阿片のように我々の国をバラ色に彩っていた事を、我々は今気付いて腰を抜かしているような日々です。

一方、時の流れに棹ささず、頑なに理念を追い求めた作者(青江)の人生は修羅でした。しかし、作品の中に表現されている数々のセリフの中に、時空を超えて響いてくる予言者的思考の確かさを感じ驚きです。

 現代人は、時の業を永遠なるものへつなげようとする視点が欠けているのだと思いました。自分自身、厚化粧した今という時を楽しみ、ただあだ花≠追い求める人生でなかったかと深く反省させられました。

破壊と創造、憎しみと愛、不信仰と信仰のフィルターを通して、永遠なるものをさがし求める作者のあくなき求道の魂は決して埋もれることなく、逆にこれから光があてられるのではと思っています。幾多の技術、労力等が注がれた干拓事業、その理念は何だったのか、それが永遠性のあるものだったのかという問いが、この作品の大きなテーマのように思いました。
 この大きなテーマに向かって、「私も戦ってきた。そのため、さんざん人を傷つけ、自らも傷ついた。でも、愛し続け求め続けた人生だったことを、私の作品から読みとってくれ」と叫んでいるように思えました。修羅を生きてきた自分の中に、願わくは永遠につながるものを読みとってくれという願いをもちながら旅立っていったように思います。

守屋ミヨ子(秋田県南秋田郡八郎潟町)

以上は抜粋で、全体はこの倍近くありました。大変に熱のこもった文章で、まさに青江の魂と守屋さんの魂が共振しているという感触が伝わって来ました。作品が時間を超えて、読者と心を通わせる様子を目の当たりにした思いでした。

なお、作品中で「真の敗北」として語られていた1960年の日米安保闘争ですが、青江自身も、明確に安保改定反対の意志を表明し、若い学生たちに混じって何回もデモ行進に参加していました。「日本国土の安全は、国民にとってまず考えなければならない問題だ。とすれば、まずそれが、日本の立場において自由に、独立国の独立人の尊厳において′沒「されるべきではないか。それをいいかげんにしておいて、政府がアメリカと取引するのはドレイ的」であると雑誌のコラムに書いています(『若い芸術』1960年7月号)。
デモ隊が国会に突入し、樺美智子さんが死亡した、あの6月15日から間もなく満50年。青江の問いかけは、今も続いているのです。
posted by 室長 at 09:42| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月02日

49〜51回分をアップしました

最後の3回分の連載画像をアップしました。
1年間のご愛読、誠にありがとうございました。
異端の劇作家 青江舜二郎

49 ともに生きた日々(3/20)
50 永眠(3/27)
51 ふるさと〈完〉(3/30)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 19:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月30日

連載終了

1年にわたって秋田魁新報紙上で連載してきた「異端の劇作家 青江舜二郎」が本日、ついに最終回を迎えました。まだ本紙を見て確認したわけではないのですが、秋田の知人から複数メールをいただいたので、間違いなく掲載されたようです。これでやっと、肩の荷が降りました。

連載のお話をいただいたのは、一昨年の11月でした。願ってもないことだと、喜んでお引き受けしたのですが、私は、映画の脚本は何本か書いた経験はあるものの、評伝も新聞連載も初めてで、ノウハウはまったくありません。何か参考になるような本はないものだろうかと記憶をたどった時に気づいたのは、世の中に作家の「娘」の書いた伝記というのは数多くありながら、「息子」が書いたものは何故かあまり見当たらないということでした。最近も、漫画家3巨頭(水木しげる、赤塚不二夫、手塚治虫)の娘たちが父親を語った『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』という本が出ましたが、こうも「父―娘」路線が強いのは、フロイトのいうエレクトラ・コンプレックスのなせる技なのでしょうか。

作家に限らず、著名人全般を想起してみても、父について息子が綴ったものはそれほど多くないように思われます。ここ数年の間に私が目をとめて読んだものといえば、『父 山本五十六 家族で囲んだ最後の夕餉』と『名優・滝沢修と激動昭和』くらいでしょうか(いずれも故人の長男が執筆)。それぞれ興味深いところはありましたが、どちらも作家の伝記ではありません。もう少し、執筆の参考というか、拠り所になるものはないかと思っていた矢先、新聞のコラムで取り上げられていたのが平井一麥氏の『六十一歳の大学生、父野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』でした。早速ネットで注文して読み始めました。厳密にいうとこれは伝記というよりは回想録で、小説家の野口冨士男が1933年から亡くなる直前までつけていた日記を、長男の平井氏がパソコンに入力する作業を通じて、改めて見えてきた父親像を語るという体裁を取っています。したがって全体の半分くらいは日記からの引用ですが、その一方、「作家の家族であるということは、(中略)結構ヤッカイなのだ」「小説家とは『ムゴイ』職業である」「私小説家とは、ここまで書かなくてはならないのだろうか」など、作家を父に持つ息子の心情が、素直に吐露されていて大いに共感するところがありました。これを読んだおかげで、私も、青江の書き残した「父の略歴」を大いに引用し、それに、時々の事件の説明や、自分の印象などを足していけば、どうにか1年約50回の評伝を書き通せるのではないかという自信が湧いてきたのです。もっとも、最初のうちこそ青江の文章の引用が多かったものの、大学に入学したあたりからは、独自調査の結果を書くことも多くなり、引用は大幅に減っていったのですが…。とはいえ平井氏のこの本は、連載終了までの私の1番の拠り所となりました。

独自調査について少し書くと、もともと私は文学研究者ではないので、あまり積極的にそういう作業を行うつもりはありませんでした。しかし、小山内薫が青江の戯曲「火」を評価し、それがきっかけで青江は小山内に師事したという話を書くことになった時、青江の手記にはそれが何という雑誌であったか書かれていなかったのが気になりました。わからないところはぼかして書くというやり方もありますが、せっかくの評伝なのだから、こういう大事なことはきっちり書きたいと考え、平井氏に倣って当時の青江の日記を引っ張り出したところ、そこにはしっかり『劇と評論』と書かれてあります。そうなると今度は、その誌面に小山内がどういう文章を書いたのかが読みたくなり、早稲田大学の演劇博物館に問い合わせてみると、バックナンバーが収蔵されているとわかり、そこで早稲田まで出かけて行って…というような具合です。そのあたりから火がついて、共立女子大学の劇芸術研究室を訪ねて「河口」の検閲台本を閲覧させていただいたり、「一葉舟」事件執筆の際には、新聞の縮刷版だけでは材料が足りず、松竹大谷図書館と国会図書館を回って、初演時の筋書本や、青江と久保田陣営が舌戦を繰り広げたという『週刊サンケイ』の投書欄を探し当ててコピーしたり…と、とにかくこの1年はずいぶんいろいろな研究機関や図書館に通いました。
戦争中の、中国大陸関係の資料は、専修大学図書館の高橋勇文庫(黒竜文庫)が大変充実していて、何度も足を向けました。小澤開作についての関係者の回想をまとめた『父を語る その二』(小澤征爾・編)や映画「モンテンルパ望郷の歌」の原作にあたる『残された人々』もそこで見つけて大いに助かったのですが、そこが私の住まいから歩いて行ける場所にあったというのは、実に幸運だったと思います。

資料に当たるだけでなく、関係者からの聞き取りも、可能な限り行いました。今年95歳になる青江の末の妹から始まって、大嶋衛生堂の元番頭の子息、高松時代の青江を知る医師、中華日報社の元社員、鎌倉アカデミアの教え子、日本テレビ開局当時のドラマ「少年西遊記」に主演した猿若清三郎氏、「法隆寺」の上演時から在籍の劇団民藝スタッフ、等々、直接お目にかかった方の数は15人近くになります。そういった方たちの口から語られる貴重な証言を通して、青江が生々しく蘇ってくるような感覚を何度も味わいました。

青江がその晩年を評伝執筆に明け暮れしたことは連載で書いた通りですが、その青江の評伝を息子の私が書くことになり、青江がしたのとまったく同じ、資料の収集や関係者の聞き取りなどの作業を行ったというのも、思えば不思議な話です。しかし、この1年間の体験は、通常では到底得がたい実に貴重なもので、これからの自分の人生にもひとつの指針を与えてくれたと思っています。「故きを温ねて新しきを知る」とは、よく言ったものです。

最後になりましたが、連載中、メールや手紙などで感想や激励のお言葉を送って下さった方、そして評伝とこのブログに長期間お付き合い下さったすべての方に、この場を借りて改めて御礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
posted by 室長 at 20:08| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月27日

秋田への旅(2010年春)

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本日掲載分の第50回で、ようやく連載開始の第1回、青江の臨終の場面に戻ってきました。長い長い回想シーンがやっと終わったような感じです。今回のタイトルは「永眠」で、見出しは「長いまどろみ、救いに」。この見出しは毎回、秋田魁新報文化部のGさんがつけるのですが、基本的には本文から言葉を抽出しています。しかし今回、本文中に「まどろみ」という単語はありません。にも関わらず、臨終に至るまでを実に的確に表現した言葉だと思いました。そのことを電話で伝えると、Gさんご自身のお父様の臨終の様子を思い起こすうち、そのひとことが自然に浮かんだとのこと。前にも書いたように、Gさんのお父様のご命日は、青江とまったく同じ4月30日。桜の花が舞い散るころ、ともに父を見送ったわけで、今さらながら不思議な因縁を感じます。

さて、連載が終わるにあたり、この1年お世話になった方へのご挨拶を兼ねて、3月の22日から24日まで、久しぶりに秋田に行って来ました。原稿はその前の週にすべて送っていたので、心は晴れやかです。

まず22日には、秋田魁新報が取り持つ縁で昨年の秋に知り合った、春風社社長の三浦衛さんと秋田駅で合流、井川町にある三浦さんのご実家に向かいました。三浦さんのお父様はもう80歳近いのですが大変お元気で、今でも毎年米作りに精を出していらっしゃるとのこと。ご自慢の農具を見せてもらったり、近くを散策したりして、久々に自然を満喫しました。また井川町は青江と縁の深かった武塙三山(秋田魁新報社長、秋田市長などを歴任)の故郷でもあり、彼の書いた随筆「火傷のご神体」を元に青江は「やけどした神様」という戯曲を書いているのですが、その舞台となったと思しき神社にも立ち寄りました。夜にはお母様の心づくしの「だまこもち」や「ハタハタずし」をご馳走になり、夜更けまで話もはずみ、そのまま一泊させていただきました。秋田には、ここ1年半で10回近く通いましたが、今まではすべて市内のビジネスホテルに泊まっており、ひとさまのお宅で眠るのは初体験です。しんと静まり返った天井の高い和室、そして外気がしんしんと冷えてくる気配…。いかにも雪国に来たという感じで新鮮な体験でした。

翌23日には、三浦さんのお宅から八郎潟に移動。以前このブログで、「評伝に長編戯曲『干拓』のことを書いたところ、ある読者の方から、是非読んでみたいというお電話が魁新報の文化部に入り…」という話を書きましたが、その方に「干拓」のコピーをお送りしたところ、ご丁寧な感想文と地元の佃煮を送っていただき、それがきっかけで、直接現地でお会いすることになったのです。その方は干拓事業が行われていた40年以上前からずっと八郎潟に住んでおり、潟の劇的な変化をその目で見ていらっしゃいました。車で、八郎潟から大潟村の総合中心地、そして防潮水門などを案内してもらい、同時に、干拓地周辺の昔や現在の様子を詳しく聞かせていただきました。まさに連載が取り持つ新たな出会いです。

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夕方、三浦さんとふたたび合流して、秋田放送と秋田魁新報を訪問。秋田放送は、一昨年10月に映画「凍える鏡」が秋田市内で上映された時にラジオ番組のゲストで出させてもらっており、その時お世話になった制作部長さんとお会いしたのですが、そこに同席した報道制作局長さんは、何と三浦さんの秋田高校の同級生とのこと。つながってくることが多くてびっくりします。続いて立ち寄った魁新報では、1年間密に連絡を取り合った文化部を訪問。担当のGさんと最後の打ち合わせをしたあと、三浦さんと3人で、ささやかな「打ち上げ」に繰り出しました。Gさんと三浦さんも、これまた秋田高校の同級生。クラスは隣り同士だったそうですが、喋るのはこれが初めてだといいます。「牛」のように(失礼!)温順なGさんと、猛禽類を思わせる(これも失礼!)アグレッシブな三浦さんはすべてにおいて対照的。私より6歳年上の先輩がたですが、人間にはそれぞれの年の取り方があるんだなあと感慨深いものがありました。

三浦さんは一足先に店を出てご実家に戻り、その後Gさんは私をホテルの前まで送ってくれましたが、まるまる1年間、連載を「伴走」してくれたパートナーともこれでお別れかと思うと、急に切ない気持ちになってきました。思い起こせば、見出しや画像の配置にまで細かく口を出したり、魁新報全体が昨年6月に漢数字から洋数字表記に変更した時も、連載記事だけは漢数字表記で通すようにしてもらったりと、編集者にとっては実に「注文の多い執筆者」であったと思います。でも、Gさんは徹頭徹尾、こちらが書きやすい環境作りに気を配り、辛抱強く付き合ってくれました。今さら言うのもなんですが、お人柄がしのばれます。最後に固い握手を交わした時にはさすがにこみあげるものがあり、喉がつまって言葉が出て来ませんでした。そんな時もGさんは私の手を握ったまま、「大嶋さん、これで終わりじゃないですよ。またいつでも会えるじゃないですか」と暖かく声をかけてくれるのです。Gさん、1年間本当にありがとうございました。

24日には、これまた資料展示などで大変お世話になったあきた文学資料館に立ち寄り、担当のKさんにご挨拶をしました。残念なことに、Kさんもこの3月末で資料館を離れるそうで、3月から4月にかけての年度替わりは、まさに出会いと別れのてんこもりです。時間の関係で今回はお目にかかれなかった、いくつもの懐かしいお顔を思い起こしながら、帰りの飛行機に乗り込みました。

さらにその翌日、25日の午後には、三浦さんの春風社をお訪ねし、ブックデザイナーの矢萩多聞さんとデザインの打ち合わせ。これまできちんと告知をしませんでしたが、実は青江の「法隆寺」と「河口」が単行本として、命日の4月30日に春風社から刊行されることになったのです。深刻な出版不況の中でもなお、「青江の戯曲には世に出す価値がある」という判断を下された三浦さんには、この場を借りて厚く御礼を申し上げたいと思います。去年の4月に始まった連載は、1年を経て、実にさまざまな花を咲かせてくれることになりました。

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なお、本日(3/27)で連載が終わると思っておられた方もいらっしゃると思いますが、最終回は3/30です。予定回数をオーバーしたのではなく、昨年12月に一回、政府予算案の発表のために学芸欄がつぶれたので、その補完措置というわけです。次回は、青江が亡くなってから現在までの「その後の日々」を綴り、全体を総括します。
posted by 室長 at 14:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月21日

46〜48回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

46 一人称の評伝@(2/27)
47 一人称の評伝A(3/06)
48 過去へ未来へ(3/13)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 17:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月20日

青江舜二郎と特撮ドラマ

今回の評伝では、息子としての私の視点で青江の思い出を綴りましたが、やはり、小学校時代の特撮ドラマのことが話の中心になってしまいました。それくらい、1970年代前半の「変身ブーム」は大変な勢いだったということです。青江とともに訪れた、当時の特撮現場の様子は、以下のページをご覧下さい。

特撮スタジオ探訪録:帰ってきたウルトラマン
特撮スタジオ探訪録:仮面ライダー

また、私が見ていた特撮ドラマは、青江もそのほとんどを一緒に見ていましたが、ただ子どものお付き合いという感じではなく、毎週自発的に、注意深く視聴していました。そのころの特撮ドラマ作品を、歌舞伎との関連性において論じた文章がありますので、以下にご紹介しておきます。
 いま、テレビで毎週土曜日の七時から七時半まで8チャンネルが「スペクトルマン」、七時半から八時まで、10チャンネルが「仮面ライダー」をやっている。
 私はしばいの楽屋というものはほとんど知らないが、恐らく俳優諸君の部屋にはかならずテレビがあるだろう。そこで諸君はどんな番組を見ているか―恐らくドラマではなく競馬、野球などのスポーツ番組か、歌謡曲中心のものか、クイズものか、たいがいそこらではないか。仮に私が役者であっても、やはりそんなところだ。何たってそれらが一番休養になる。
 だが、一度だけこの二つをつづけて見てもらいたい。

 これらはその題が示すように小学生向けのいわゆる怪獣と超人≠烽フである。だが彼らの興味は比較にならぬほど「仮面ライダー」にあつまっている。
 スペクトルマンに変身するのは公害Gメン(又は怪獣Gメン)に属する蒲生譲二という隊員で、彼に超能力を付与するのはネビュラ遊星だ。これはわが国のテレビに超人もの≠フパターンを定着させた何年か前の「ウルトラマン」の亜流で、前半は民衆やGメンたちがさんざん怪獣又は星人にやっつけられ、後半―というよりもおしまい近くになってようやく変身≠ェ出現して怪獣及びその一味をやっつける。ついでにいえば、金曜日七時から6チャンネルで近頃放映されている「帰ってきたウルトラマン」もやはりこれと同じたぐいだ。
 かぶきのひとたちには、これがかぶき十八番の代表「暫(しばらく)」を祖型としていることがすぐわかるだろう。無力な善人―その中にはさむらいや忠臣たちもいる―が超人間的な悪≠ノやっつけられようとする時、同じく超人間的な勇者が出現してそうした悪≠調伏するというのだが、こうした筋立てはかぶき十八番を経て江戸かぶき中期まで、いわゆる霊験物≠ニして、きわめて写実的な筋立ての中に伝承されるようになった。

 だが、わが仮面ライダー≠ヘ同じく超人もののワクの中にありながら、これらとはかなりはっきりちがうのである。
 それはどこか。
 これまでの超人の変身は、そのドラマの終り近くになって、はじめてあらわれたのに、仮面ライダーは、ドラマがはじまったかと思うと、もう一文字隼人がライダーに変身して、猛烈なるショッカーの怪人たちと勇壮にカッコよくたたかうのである。「スペクトルマン」の蒲生も「帰ってきたウルトラマン」の郷秀樹も、変身しないうちは他の隊員同様ただまごまごおろおろするばかりだが、「仮面ライダー」の一文字隼人は、変身しない時でもめざましくショッカーどもと格闘して彼らをやっつける。そこでショッカーは、さらに強力な仲間を送りつけて来るので隼人は自力で仮面ライダーになり、死力をふりしぽってたたかう事になるのだ。ここでたいへんおもしろいのは、一文字隼人は蒲生や郷とちがい、人間の姿でいる時も、強烈な各種のエネルギーをそのままもっていることだ。隼人にほれている娘がいる。隼人も彼女がきらいでない。しかしその気持が激して彼女を抱こうとし、ハッとして思いとどまらざるを得ないのは、彼女を抱くと、そのスタミナとエネルギーで彼女の背骨が折れたり、もしくは一瞬にしてからだが燃えて消滅してしまうかも知れないからである。何という悲しさ。そしてそれゆえに一文字隼人の魅力はいっそうジーンとしみるのだ。

 いま、「スペクトルマン」や「帰ってきたウルトラマン」の放映局に毎日のように殺到するこどもたちの投書は、例外なく超人の登場がおそすぎる不満だという。やれGメンだのMAT(以前の科学特捜隊)などが特別光線銃などをもってワアワア出て来て怪獣を攻撃しても、何の役にも立っていないではないか。そんなものに国民の税金を使うなんてナンセンスだ。いつもスペクトルマンやウルトラマンしか手がらを立てないのだから、はじめから彼らに頼めば、東京、大阪などという大都市はこわされずにすむ。それがどうしておとなにはわからないかと手きびしい。
 その点、「仮面ライダー」にはそんな部隊は登場しない。いつも一文字隼人とその親しい仲間だけでショッカーに立ち向かっている。しかもスペクトルマンはネビュラ遊星、ウルトラマンはM78星雲のおかげがなければ変身できないのに、一文字隼人はつねに自分で変身する。何とこの方が人間的でしかも前向きであることか。今のこどもたちはそれらを肌で感じとっている。そして十年後には彼らは早くも大人になるのだ。―この事を現在のかぶき関係者や俳優諸君ははたしてどの程度気がついているだろう。そうした事実の上にこそ将来のかぶきの見物の吸収が考えられなければならないのに―(中略)。

 これからのかぶきの脚本は、おしまいに主役―神、救済者―が出て来てめでたしめでたし、というようなものはだめで、主人公がはじめから困難、または障碍にまっこうからぶつかってゆくというものでなければならず、役者の心構えからすれば、荒事の主役のように、まず、おのれがその役に強烈にとりつくというのでなければなるまい。(後略)
『歌舞伎』1972年1号収載「〈のり〉供養」より抜粋

ヒーロー登場のタイミングに着目するあたりは、さすがに劇作家だと思います。なお、上の文章には、一文字隼人の秘めたる恋が取り上げられていますが、これはテレビの「仮面ライダー」ではなく、同時期に『週刊少年マガジン』に連載されていた石森章太郎の原作漫画第6話「仮面の世界(マスカーワールド)」に出て来るエピソードです。隼人は日の下電子(株)の受付嬢である順子という女性に思いを寄せていますが、改造人間である彼は、「一文字隼人のばかやろう! …おまえには女性に恋する資格などはないんだぞ!」と自分自身を罵倒し、思いを断ち切ろうとします。このように当時の青江は、テレビ版だけでなく、原作漫画にもしっかり目を通していたのです。小学生だった私は、大変に話のわかる父親を持ったことを嬉しく思っていました。こうしたコンセンサスが、その後、オリジナルの8ミリ版「仮面ライダー」に結実するわけです。

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8ミリ版「仮面ライダー」のスナップ。右から2人目の戦闘員が大嶋。写真撮影は青江(1972年5月)
posted by 室長 at 09:45| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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