2010年03月30日

連載終了

1年にわたって秋田魁新報紙上で連載してきた「異端の劇作家 青江舜二郎」が本日、ついに最終回を迎えました。まだ本紙を見て確認したわけではないのですが、秋田の知人から複数メールをいただいたので、間違いなく掲載されたようです。これでやっと、肩の荷が降りました。

連載のお話をいただいたのは、一昨年の11月でした。願ってもないことだと、喜んでお引き受けしたのですが、私は、映画の脚本は何本か書いた経験はあるものの、評伝も新聞連載も初めてで、ノウハウはまったくありません。何か参考になるような本はないものだろうかと記憶をたどった時に気づいたのは、世の中に作家の「娘」の書いた伝記というのは数多くありながら、「息子」が書いたものは何故かあまり見当たらないということでした。最近も、漫画家3巨頭(水木しげる、赤塚不二夫、手塚治虫)の娘たちが父親を語った『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』という本が出ましたが、こうも「父―娘」路線が強いのは、フロイトのいうエレクトラ・コンプレックスのなせる技なのでしょうか。

作家に限らず、著名人全般を想起してみても、父について息子が綴ったものはそれほど多くないように思われます。ここ数年の間に私が目をとめて読んだものといえば、『父 山本五十六 家族で囲んだ最後の夕餉』と『名優・滝沢修と激動昭和』くらいでしょうか(いずれも故人の長男が執筆)。それぞれ興味深いところはありましたが、どちらも作家の伝記ではありません。もう少し、執筆の参考というか、拠り所になるものはないかと思っていた矢先、新聞のコラムで取り上げられていたのが平井一麥氏の『六十一歳の大学生、父野口冨士男の遺した一万枚の日記に挑む』でした。早速ネットで注文して読み始めました。厳密にいうとこれは伝記というよりは回想録で、小説家の野口冨士男が1933年から亡くなる直前までつけていた日記を、長男の平井氏がパソコンに入力する作業を通じて、改めて見えてきた父親像を語るという体裁を取っています。したがって全体の半分くらいは日記からの引用ですが、その一方、「作家の家族であるということは、(中略)結構ヤッカイなのだ」「小説家とは『ムゴイ』職業である」「私小説家とは、ここまで書かなくてはならないのだろうか」など、作家を父に持つ息子の心情が、素直に吐露されていて大いに共感するところがありました。これを読んだおかげで、私も、青江の書き残した「父の略歴」を大いに引用し、それに、時々の事件の説明や、自分の印象などを足していけば、どうにか1年約50回の評伝を書き通せるのではないかという自信が湧いてきたのです。もっとも、最初のうちこそ青江の文章の引用が多かったものの、大学に入学したあたりからは、独自調査の結果を書くことも多くなり、引用は大幅に減っていったのですが…。とはいえ平井氏のこの本は、連載終了までの私の1番の拠り所となりました。

独自調査について少し書くと、もともと私は文学研究者ではないので、あまり積極的にそういう作業を行うつもりはありませんでした。しかし、小山内薫が青江の戯曲「火」を評価し、それがきっかけで青江は小山内に師事したという話を書くことになった時、青江の手記にはそれが何という雑誌であったか書かれていなかったのが気になりました。わからないところはぼかして書くというやり方もありますが、せっかくの評伝なのだから、こういう大事なことはきっちり書きたいと考え、平井氏に倣って当時の青江の日記を引っ張り出したところ、そこにはしっかり『劇と評論』と書かれてあります。そうなると今度は、その誌面に小山内がどういう文章を書いたのかが読みたくなり、早稲田大学の演劇博物館に問い合わせてみると、バックナンバーが収蔵されているとわかり、そこで早稲田まで出かけて行って…というような具合です。そのあたりから火がついて、共立女子大学の劇芸術研究室を訪ねて「河口」の検閲台本を閲覧させていただいたり、「一葉舟」事件執筆の際には、新聞の縮刷版だけでは材料が足りず、松竹大谷図書館と国会図書館を回って、初演時の筋書本や、青江と久保田陣営が舌戦を繰り広げたという『週刊サンケイ』の投書欄を探し当ててコピーしたり…と、とにかくこの1年はずいぶんいろいろな研究機関や図書館に通いました。
戦争中の、中国大陸関係の資料は、専修大学図書館の高橋勇文庫(黒竜文庫)が大変充実していて、何度も足を向けました。小澤開作についての関係者の回想をまとめた『父を語る その二』(小澤征爾・編)や映画「モンテンルパ望郷の歌」の原作にあたる『残された人々』もそこで見つけて大いに助かったのですが、そこが私の住まいから歩いて行ける場所にあったというのは、実に幸運だったと思います。

資料に当たるだけでなく、関係者からの聞き取りも、可能な限り行いました。今年95歳になる青江の末の妹から始まって、大嶋衛生堂の元番頭の子息、高松時代の青江を知る医師、中華日報社の元社員、鎌倉アカデミアの教え子、日本テレビ開局当時のドラマ「少年西遊記」に主演した猿若清三郎氏、「法隆寺」の上演時から在籍の劇団民藝スタッフ、等々、直接お目にかかった方の数は15人近くになります。そういった方たちの口から語られる貴重な証言を通して、青江が生々しく蘇ってくるような感覚を何度も味わいました。

青江がその晩年を評伝執筆に明け暮れしたことは連載で書いた通りですが、その青江の評伝を息子の私が書くことになり、青江がしたのとまったく同じ、資料の収集や関係者の聞き取りなどの作業を行ったというのも、思えば不思議な話です。しかし、この1年間の体験は、通常では到底得がたい実に貴重なもので、これからの自分の人生にもひとつの指針を与えてくれたと思っています。「故きを温ねて新しきを知る」とは、よく言ったものです。

最後になりましたが、連載中、メールや手紙などで感想や激励のお言葉を送って下さった方、そして評伝とこのブログに長期間お付き合い下さったすべての方に、この場を借りて改めて御礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
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2010年03月27日

秋田への旅(2010年春)

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本日掲載分の第50回で、ようやく連載開始の第1回、青江の臨終の場面に戻ってきました。長い長い回想シーンがやっと終わったような感じです。今回のタイトルは「永眠」で、見出しは「長いまどろみ、救いに」。この見出しは毎回、秋田魁新報文化部のGさんがつけるのですが、基本的には本文から言葉を抽出しています。しかし今回、本文中に「まどろみ」という単語はありません。にも関わらず、臨終に至るまでを実に的確に表現した言葉だと思いました。そのことを電話で伝えると、Gさんご自身のお父様の臨終の様子を思い起こすうち、そのひとことが自然に浮かんだとのこと。前にも書いたように、Gさんのお父様のご命日は、青江とまったく同じ4月30日。桜の花が舞い散るころ、ともに父を見送ったわけで、今さらながら不思議な因縁を感じます。

さて、連載が終わるにあたり、この1年お世話になった方へのご挨拶を兼ねて、3月の22日から24日まで、久しぶりに秋田に行って来ました。原稿はその前の週にすべて送っていたので、心は晴れやかです。

まず22日には、秋田魁新報が取り持つ縁で昨年の秋に知り合った、春風社社長の三浦衛さんと秋田駅で合流、井川町にある三浦さんのご実家に向かいました。三浦さんのお父様はもう80歳近いのですが大変お元気で、今でも毎年米作りに精を出していらっしゃるとのこと。ご自慢の農具を見せてもらったり、近くを散策したりして、久々に自然を満喫しました。また井川町は青江と縁の深かった武塙三山(秋田魁新報社長、秋田市長などを歴任)の故郷でもあり、彼の書いた随筆「火傷のご神体」を元に青江は「やけどした神様」という戯曲を書いているのですが、その舞台となったと思しき神社にも立ち寄りました。夜にはお母様の心づくしの「だまこもち」や「ハタハタずし」をご馳走になり、夜更けまで話もはずみ、そのまま一泊させていただきました。秋田には、ここ1年半で10回近く通いましたが、今まではすべて市内のビジネスホテルに泊まっており、ひとさまのお宅で眠るのは初体験です。しんと静まり返った天井の高い和室、そして外気がしんしんと冷えてくる気配…。いかにも雪国に来たという感じで新鮮な体験でした。

翌23日には、三浦さんのお宅から八郎潟に移動。以前このブログで、「評伝に長編戯曲『干拓』のことを書いたところ、ある読者の方から、是非読んでみたいというお電話が魁新報の文化部に入り…」という話を書きましたが、その方に「干拓」のコピーをお送りしたところ、ご丁寧な感想文と地元の佃煮を送っていただき、それがきっかけで、直接現地でお会いすることになったのです。その方は干拓事業が行われていた40年以上前からずっと八郎潟に住んでおり、潟の劇的な変化をその目で見ていらっしゃいました。車で、八郎潟から大潟村の総合中心地、そして防潮水門などを案内してもらい、同時に、干拓地周辺の昔や現在の様子を詳しく聞かせていただきました。まさに連載が取り持つ新たな出会いです。

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夕方、三浦さんとふたたび合流して、秋田放送と秋田魁新報を訪問。秋田放送は、一昨年10月に映画「凍える鏡」が秋田市内で上映された時にラジオ番組のゲストで出させてもらっており、その時お世話になった制作部長さんとお会いしたのですが、そこに同席した報道制作局長さんは、何と三浦さんの秋田高校の同級生とのこと。つながってくることが多くてびっくりします。続いて立ち寄った魁新報では、1年間密に連絡を取り合った文化部を訪問。担当のGさんと最後の打ち合わせをしたあと、三浦さんと3人で、ささやかな「打ち上げ」に繰り出しました。Gさんと三浦さんも、これまた秋田高校の同級生。クラスは隣り同士だったそうですが、喋るのはこれが初めてだといいます。「牛」のように(失礼!)温順なGさんと、猛禽類を思わせる(これも失礼!)アグレッシブな三浦さんはすべてにおいて対照的。私より6歳年上の先輩がたですが、人間にはそれぞれの年の取り方があるんだなあと感慨深いものがありました。

三浦さんは一足先に店を出てご実家に戻り、その後Gさんは私をホテルの前まで送ってくれましたが、まるまる1年間、連載を「伴走」してくれたパートナーともこれでお別れかと思うと、急に切ない気持ちになってきました。思い起こせば、見出しや画像の配置にまで細かく口を出したり、魁新報全体が昨年6月に漢数字から洋数字表記に変更した時も、連載記事だけは漢数字表記で通すようにしてもらったりと、編集者にとっては実に「注文の多い執筆者」であったと思います。でも、Gさんは徹頭徹尾、こちらが書きやすい環境作りに気を配り、辛抱強く付き合ってくれました。今さら言うのもなんですが、お人柄がしのばれます。最後に固い握手を交わした時にはさすがにこみあげるものがあり、喉がつまって言葉が出て来ませんでした。そんな時もGさんは私の手を握ったまま、「大嶋さん、これで終わりじゃないですよ。またいつでも会えるじゃないですか」と暖かく声をかけてくれるのです。Gさん、1年間本当にありがとうございました。

24日には、これまた資料展示などで大変お世話になったあきた文学資料館に立ち寄り、担当のKさんにご挨拶をしました。残念なことに、Kさんもこの3月末で資料館を離れるそうで、3月から4月にかけての年度替わりは、まさに出会いと別れのてんこもりです。時間の関係で今回はお目にかかれなかった、いくつもの懐かしいお顔を思い起こしながら、帰りの飛行機に乗り込みました。

さらにその翌日、25日の午後には、三浦さんの春風社をお訪ねし、ブックデザイナーの矢萩多聞さんとデザインの打ち合わせ。これまできちんと告知をしませんでしたが、実は青江の「法隆寺」と「河口」が単行本として、命日の4月30日に春風社から刊行されることになったのです。深刻な出版不況の中でもなお、「青江の戯曲には世に出す価値がある」という判断を下された三浦さんには、この場を借りて厚く御礼を申し上げたいと思います。去年の4月に始まった連載は、1年を経て、実にさまざまな花を咲かせてくれることになりました。

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なお、本日(3/27)で連載が終わると思っておられた方もいらっしゃると思いますが、最終回は3/30です。予定回数をオーバーしたのではなく、昨年12月に一回、政府予算案の発表のために学芸欄がつぶれたので、その補完措置というわけです。次回は、青江が亡くなってから現在までの「その後の日々」を綴り、全体を総括します。
posted by 室長 at 14:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月21日

46〜48回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

46 一人称の評伝@(2/27)
47 一人称の評伝A(3/06)
48 過去へ未来へ(3/13)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 17:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月20日

青江舜二郎と特撮ドラマ

今回の評伝では、息子としての私の視点で青江の思い出を綴りましたが、やはり、小学校時代の特撮ドラマのことが話の中心になってしまいました。それくらい、1970年代前半の「変身ブーム」は大変な勢いだったということです。青江とともに訪れた、当時の特撮現場の様子は、以下のページをご覧下さい。

特撮スタジオ探訪録:帰ってきたウルトラマン
特撮スタジオ探訪録:仮面ライダー

また、私が見ていた特撮ドラマは、青江もそのほとんどを一緒に見ていましたが、ただ子どものお付き合いという感じではなく、毎週自発的に、注意深く視聴していました。そのころの特撮ドラマ作品を、歌舞伎との関連性において論じた文章がありますので、以下にご紹介しておきます。
 いま、テレビで毎週土曜日の七時から七時半まで8チャンネルが「スペクトルマン」、七時半から八時まで、10チャンネルが「仮面ライダー」をやっている。
 私はしばいの楽屋というものはほとんど知らないが、恐らく俳優諸君の部屋にはかならずテレビがあるだろう。そこで諸君はどんな番組を見ているか―恐らくドラマではなく競馬、野球などのスポーツ番組か、歌謡曲中心のものか、クイズものか、たいがいそこらではないか。仮に私が役者であっても、やはりそんなところだ。何たってそれらが一番休養になる。
 だが、一度だけこの二つをつづけて見てもらいたい。

 これらはその題が示すように小学生向けのいわゆる怪獣と超人≠烽フである。だが彼らの興味は比較にならぬほど「仮面ライダー」にあつまっている。
 スペクトルマンに変身するのは公害Gメン(又は怪獣Gメン)に属する蒲生譲二という隊員で、彼に超能力を付与するのはネビュラ遊星だ。これはわが国のテレビに超人もの≠フパターンを定着させた何年か前の「ウルトラマン」の亜流で、前半は民衆やGメンたちがさんざん怪獣又は星人にやっつけられ、後半―というよりもおしまい近くになってようやく変身≠ェ出現して怪獣及びその一味をやっつける。ついでにいえば、金曜日七時から6チャンネルで近頃放映されている「帰ってきたウルトラマン」もやはりこれと同じたぐいだ。
 かぶきのひとたちには、これがかぶき十八番の代表「暫(しばらく)」を祖型としていることがすぐわかるだろう。無力な善人―その中にはさむらいや忠臣たちもいる―が超人間的な悪≠ノやっつけられようとする時、同じく超人間的な勇者が出現してそうした悪≠調伏するというのだが、こうした筋立てはかぶき十八番を経て江戸かぶき中期まで、いわゆる霊験物≠ニして、きわめて写実的な筋立ての中に伝承されるようになった。

 だが、わが仮面ライダー≠ヘ同じく超人もののワクの中にありながら、これらとはかなりはっきりちがうのである。
 それはどこか。
 これまでの超人の変身は、そのドラマの終り近くになって、はじめてあらわれたのに、仮面ライダーは、ドラマがはじまったかと思うと、もう一文字隼人がライダーに変身して、猛烈なるショッカーの怪人たちと勇壮にカッコよくたたかうのである。「スペクトルマン」の蒲生も「帰ってきたウルトラマン」の郷秀樹も、変身しないうちは他の隊員同様ただまごまごおろおろするばかりだが、「仮面ライダー」の一文字隼人は、変身しない時でもめざましくショッカーどもと格闘して彼らをやっつける。そこでショッカーは、さらに強力な仲間を送りつけて来るので隼人は自力で仮面ライダーになり、死力をふりしぽってたたかう事になるのだ。ここでたいへんおもしろいのは、一文字隼人は蒲生や郷とちがい、人間の姿でいる時も、強烈な各種のエネルギーをそのままもっていることだ。隼人にほれている娘がいる。隼人も彼女がきらいでない。しかしその気持が激して彼女を抱こうとし、ハッとして思いとどまらざるを得ないのは、彼女を抱くと、そのスタミナとエネルギーで彼女の背骨が折れたり、もしくは一瞬にしてからだが燃えて消滅してしまうかも知れないからである。何という悲しさ。そしてそれゆえに一文字隼人の魅力はいっそうジーンとしみるのだ。

 いま、「スペクトルマン」や「帰ってきたウルトラマン」の放映局に毎日のように殺到するこどもたちの投書は、例外なく超人の登場がおそすぎる不満だという。やれGメンだのMAT(以前の科学特捜隊)などが特別光線銃などをもってワアワア出て来て怪獣を攻撃しても、何の役にも立っていないではないか。そんなものに国民の税金を使うなんてナンセンスだ。いつもスペクトルマンやウルトラマンしか手がらを立てないのだから、はじめから彼らに頼めば、東京、大阪などという大都市はこわされずにすむ。それがどうしておとなにはわからないかと手きびしい。
 その点、「仮面ライダー」にはそんな部隊は登場しない。いつも一文字隼人とその親しい仲間だけでショッカーに立ち向かっている。しかもスペクトルマンはネビュラ遊星、ウルトラマンはM78星雲のおかげがなければ変身できないのに、一文字隼人はつねに自分で変身する。何とこの方が人間的でしかも前向きであることか。今のこどもたちはそれらを肌で感じとっている。そして十年後には彼らは早くも大人になるのだ。―この事を現在のかぶき関係者や俳優諸君ははたしてどの程度気がついているだろう。そうした事実の上にこそ将来のかぶきの見物の吸収が考えられなければならないのに―(中略)。

 これからのかぶきの脚本は、おしまいに主役―神、救済者―が出て来てめでたしめでたし、というようなものはだめで、主人公がはじめから困難、または障碍にまっこうからぶつかってゆくというものでなければならず、役者の心構えからすれば、荒事の主役のように、まず、おのれがその役に強烈にとりつくというのでなければなるまい。(後略)
『歌舞伎』1972年1号収載「〈のり〉供養」より抜粋

ヒーロー登場のタイミングに着目するあたりは、さすがに劇作家だと思います。なお、上の文章には、一文字隼人の秘めたる恋が取り上げられていますが、これはテレビの「仮面ライダー」ではなく、同時期に『週刊少年マガジン』に連載されていた石森章太郎の原作漫画第6話「仮面の世界(マスカーワールド)」に出て来るエピソードです。隼人は日の下電子(株)の受付嬢である順子という女性に思いを寄せていますが、改造人間である彼は、「一文字隼人のばかやろう! …おまえには女性に恋する資格などはないんだぞ!」と自分自身を罵倒し、思いを断ち切ろうとします。このように当時の青江は、テレビ版だけでなく、原作漫画にもしっかり目を通していたのです。小学生だった私は、大変に話のわかる父親を持ったことを嬉しく思っていました。こうしたコンセンサスが、その後、オリジナルの8ミリ版「仮面ライダー」に結実するわけです。

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8ミリ版「仮面ライダー」のスナップ。右から2人目の戦闘員が大嶋。写真撮影は青江(1972年5月)
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2010年03月13日

1回で2回分

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インドにて。後列右から3人目が青江(1961年)

今週の評伝タイトルは「過去へ未来へ」。なんだかタイムスリップする話みたいですが、読んでいただけるとわかるように、青江は民俗学、歴史学といった古(いにしえ)のものにも、コンピューターのような、当時としては近未来的なものにも、等しく関心を寄せていたという意味です。

でも、今回は自分でも、いささか詰め込みすぎのような気がしました。当初のプロットでは、「過去へのまなざし」で1回、「コンピュータードラマ」で1回の計2回を予定していたのですが、「河口」や中国大陸編あたりで予定を数回オーバーしてしまい、そのしわよせが来て、このような超圧縮回になったわけです。本当はどちらかひとつでも、テーマとしては大変奥深いものなのに、それを2つで原稿用紙4枚程度にまとめたのですから、本当に「何のこっちゃ」です。ただ、青江の好奇心が晩年まで八方に広がっていたという事実だけは、辛うじて提示できたかも知れませんが…。

というわけで、「過去」を語る際のキーワードである「インド」と、「未来」のキーワードである「コンピューター」について、青江が書いたものを以下に引用しておきます。どちらもドラマとの関連において語られているのは言うまでもありません。

宗教とドラマ −「アングリマーラ」を見て−

 インドに三か月滞在している間に、インド・タイ合作映画「アングリマーラ」を見た。指鬘外道=iしまんげどう)の名で知られる仏教説話で、日本でも以前はしばしば劇や舞踊の主題になったものだ。アヒンサカ(不殺生)という求道者が、師匠(バラモンの学者)の妻の情欲を受け入れなかったばかりに、「真理を得るためには百人の人間を殺さねばならぬ」とそそのかされる。九十九人まで殺した時に彼の母親がみずからを最後の犠牲者とするためやってくる。アヒンサカはこれに襲いかかろうとする。仏が現われて身代わりになろうという。アヒンサカはどうしても仏を殺すことができずその弟子になるというのだが、タイは仏教国だからいいとして、仏教がすでにほろびているインドで、そして自己の宗教をまもることに極度にいこじなヒンズー教徒の充満しているインドで、バラモンの学者がかたき役になっているこの仏教的物語が、どのような見物客を呼ぶものだろうか。―これが、私をその映画館へひきよせた理由であった。
[全文を読む]


コンピューターとサザエさん

 私は東京電機大学の教授である。私が劇作家であることを知っている人間は、それを知ったとき例外なく同じ質問を目にする。
「いったい何を教えているんです」
 これがもっと親しいやつだと、
「いったい何を習いにいってるんだ」
 そのたびに私は天を仰いで嘆息せずにはおられない。
「ああ、日本の教養人は何とせまい世界に住んでいることか」

 NHKがテレビを始めた頃、そのためにアメリカからやって来たひと(テッド・アレグレッティ)の指導に私は参加することができ、ラジオ東京設立の時は、田町に事務所があった頃からそれを手伝い、日本テレビができた時もまだテレビ塔が建たぬうちから、その制作関係にタッチさせられる。が、私自身あくまで劇作家のつもりだから、これらの組織の中に入りこんで、役職につく気はサラサラなかった。
 しかしそのうちに、電気の魅力が私をつかんで離さなくなり、いろいろな妄想にとりつかれることになる。その一つが、
「コンピューターはドラマをはじき出せるのではないか」
 ということで…
[全文を読む]

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『放送朝日』1972年8月号より(クリックで拡大)
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2010年03月06日

宮沢賢治と石原莞爾

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先々週分から本日掲載分の計3回で、青江の評伝作家としての仕事をひととおりご紹介しました。しかしながら、枚数の制約が厳然とありますので、本当に「さわり」だけという感じです。ワンフレーズで、それぞれの対象への思いを語ってしまうなら、

内藤湖南に学問者としてのおのれを重ね、
竹久夢二に青春を重ね、
石原莞爾に大陸の夢を重ね、
宮沢賢治に東北の闇を重ね、
そして狩野亨吉に自らの老いを重ねた。

といったとことでしょうか(いささか強引ですが…)。

さて、本日の掲載分で、青江が宮沢賢治と石原莞爾の評伝を相次いで世に出し、2人の生き方に相通じるものを見出していたと書きました。そのことは『宮沢賢治 修羅に生きる』の中にはっきり示されています。なお、本文中でも少し触れた、賢治と石原の比較研究書は2007年の刊行で、「法華経」「国柱会」「ユートピア思想」をキーワードに、両者の類似性を論じているのですが、その本の帯に「これまで誰もがとりあげようとしなかった主題」と書かれていたのが少々気になりました。著者自身もその前書きに、「これまで並列して論じられることはあまりなかった」と書いています。実際には青江は35年も前に、かなり明確に「並列して論じ」ているのですが…。
もちろん、こうした比較研究というのは、誰が最初にそれに目をつけたかということより、その先の掘り下げ方こそ問題にするべきだとは思いますが、青江がそうした両者の比較に先鞭をつけたという事実を提示しておくのも、このブログの役割のひとつではないかと考え、以下にその部分を引用しておきます。

賢治と莞爾

 これまでおそらくこんな対比は一度もなされなかった。一人はめめしいまでにやさしく、情深いいなかの詩人。一人は日本侵掠主義の悪名を、全世界にとどろかした満洲事変の元兇。一方が菩薩なら一方はまさしく悪鬼羅刹(らせつ)である。だから、賢治が国柱会にかかわりをもったことを述べる文章には、

国柱会に対しては、入信時代とはしだいに変化し、冷却した。表面へは出さなかったが批判的であった。それは国柱会の運動が国体主義中心となり、軍部ファッショ化に信念を与える役目をはたすようになったからである。……関東軍参謀石原莞爾のような満洲侵略の張本人を、熱烈な信者に持ったりして時局便乗もいいところであった。――賢治は、こうして国柱会とは離れ、ひたすら自己の信仰を全うした(『年譜』「国柱会」)。

 だがはたしてそうだろうか。まずいえるのは、この文章の筆者は石原莞爾については世評しか知らず、法華経についても国柱会についてもほとんどその程度である。
 石原が熱心な法華経の讃仰者で、国柱会の会員であったことは有名であった。「その点で賢治と類は同じだが、本質的にはまるでちがう」ということを、年譜の筆者は「賢治の名誉のため」にいわなけれはならないと、考えたがための文章ではなかったか。
 ところが私の見るところ、この二人は本質的にじつによく似ていて困るくらいだ。

 石原は明治二十二年(一八八九)一月、山形県の鶴岡に生れ、賢治よりも七最年長だ。幼年学校から士官学校に進んだが、学課はよくできても行儀が悪く、日上の人に対する口のきき方がまるでらんぼう、しかも思い切ったいたずらをやるので、成績順位はよくなかった。スケッチがとくいでしかもなかなかうまい。士官学校を出て会津若松の連隊に配属され、中尉に昇進して第四中隊附きとなって、兵の教育を任されるようになると、俄然人間が変ったように、それに精魂をかたむけるようになる。
 「兵こそは神だ」というのが、当時の石原の口ぐせで、兵が神であるのは彼らがすべて農家の出身だからであった。ここで、賢治の「農民は神だ」という言葉を思い出す人がいるかもしれない。だがこの言葉に関する限り、それはすべて受け売りでなく、その人生態度と生活から自然に流露した叫びにほかならない。
 石原は目上には反抗的だが、兵士や女こどもにはそれはそれはやさしかった。その心づかいがとても彼とは思えぬほど、女性的でしかも行きとどき、ドイツ留学中でも、外国の婦人たちには、日本軍人ではイシハラはいちばんエティケットを心得ていると好評だった。陸大の試験を受ける気はなく、終生部隊将校で満足だと、兵の営内生活の改善、郷土との結びつき、さらには、彼らにいい副業を与えるため隊内でウサギを飼ったり、農業講習会をしばしば開いたりする。彼が陸大を受けたのは、会津若松の連隊が新設で、そこからだれかを陸大に送りたいという将校団の熱望があり、そこで石原に連隊長の命令が下るのだ。そしてかんたんに合格するのだが、土曜日曜は汽車で原隊にもどってきて兵隊と暮し、おそい夜汽車で東京に引き返す。
 満洲事変後仙台第四連隊長になると、農村生活を基盤とする兵教育の方針を、さらにはっきり打ち出し、兵士は、除隊帰村後、その村造りの幹部として役に立つよう、各種の新しい知識や技能を営内で仕込むのであった。現中国の愛郷愛土国民皆兵≠賞讃するひとたちはその教育訓練を石原のそれと比較してみるべきだ。そのころ賢治はすでに病気で再起の見込みはほとんどなかったが、昭和初頭の賢治の羅須地人協会の仕事は、この石原によって引き継がれたといっていいほどである。くわしくは石原莞爾の伝記を見てもらいたいが、こうした石原の精紳と行動をまったく知らないで、かんたんにつじつまをあわされてはどうにも困るのだ。

 農民のかなしさ≠ノ目ざめてからの賢治は、そのしあわせ≠フためにおのれのすべてをなげ出したことは、だれも疑うことはできないが、その具体的方策の中には、選ばれた若い農民たちが団結して新たな土地に移住し、そこに理想的な村づくりをすることがあった。
 それは満洲国がつくられた後、加藤完治などの農民生活指導者たちが、満洲において実現しようとしたもので、北浦の荒野に日の丸兵舎と呼ばれた開拓移民印たちの円い宿舎を中心に、開墾による新しい村がつぎつぎつくられる。資本主義経済否定の上に成り立たせようとした新たな農民の社会で、石原莞爾の終生の夢であった。羅須地人協会時代の賢治の思想と実践にも、それとまったく同じ傾斜が認められはしないか。

『宮沢賢治 修羅に生きる』青江舜二郎(1974年・講談社現代新書)より


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2010年02月25日

43〜45回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

43 故郷への思い(2/06)
44 分岐点(2/13)
45 内藤湖南(2/20)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
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2010年02月20日

評伝作家編スタート

今週から評伝作家としての青江の仕事を、数回にわたって書く予定です。
今回はまず『竜の星座 内藤湖南のアジア的生涯』を取り上げましたが、これまで戯曲のあらすじを紹介したようには、内容に踏み込んで書いていません。それは、小説や戯曲のようなドラマと違って、評伝の全体像を短い文章を要約するのが難しいからであり、また今回の連載が「青江舜二郎の評伝」であるという性質上、書かれた対象よりも書いた青江にスポットを当てざるを得ないからでもあるのですが、第一の理由は、活字化されていない多くの戯曲とは異なり、評伝はほとんどが書籍として世に出ており、現在でも比較的容易に手に入るからです。もしご興味を持たれた方は、図書館で借りるか、ネットで古本を探すかして、是非この機会に青江の書いたものを、直接お読みいただきたい、という願いが密かにこもっているのです。
ちなみに、秋田県立図書館では青江の名前で31件が該当しますし、Amazonでも、関連書籍を含め50件以上がヒットします。私個人としては、来週取り上げる予定の『竹久夢二』がいろいろな意味で一番のオススメです。
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2010年02月13日

新聞社への電話

先週の連載(2/6掲載分)で、八郎潟の干拓を題材にした青江の長編戯曲「干拓」について書いたところ、その日の午前中に、ある読者の方から「是非読んでみたい」というお電話が魁新報の文化部に入ったとのこと。さすがにご当地のことが取り上げられていると反応が早いようです。
もちろん嬉しいご要望ではあるのですが、残念ながら、「干拓」は単行本化されておらず、掲載された雑誌『劇と評論』も、秋田の図書館には収蔵されていないようで、手に入れることは難しいということでした。その方と直接電話でお話しした文化部のGさんは、「折角なので、コピーでもお送りできればと思うのですが…」とおっしゃり、私も、興味のある方にはなるべく読んでいただきたいと思うので、しかるべく対応する準備に入っています。

それにしても、この「干拓」に限らず、青江の戯曲はまともに単行本化されているものがほとんどないのが、著作権継承者としては悩みのタネです(未来社から一幕劇集が2作刊行されているのみ)。晩年に執筆した評伝はほとんどが文庫化までされているので、ネットなどでも容易に手に入るのですが、その一方で戯曲の方は、代表作とされる「河口」や「法隆寺」でさえ、現在のところ、一般ルートではお読みいただくことが困難な状況です。これでは、生涯の肩書きを「劇作家」一本で通してきた青江としても不本意に違いありません(人名事典やネットなどでの略歴を見ると、「青江舜二郎=劇作家・評論家」となっているものが多いですが、「評論家」というのは、評伝や研究書を多数執筆しているために、結果としてそういう肩書きがついてきただけで、本人は生前、自分からは一度も「評論家」とは名乗っていません)。というわけで、現在ひそかに、青江の劇作を改めて世に出すプロジェクトに取り組みつつあります。詳細をお伝えできるのはもう少し先になりますが…。

なお、本日(2/13)掲載の評伝では、ついに私が「誕生」しました。自分が知っている時代のことを書くのは、対象との距離の取り方も難しく、どうにもやりにくいものです。とはいえ連載は3月末までなので、もはや完全に最終コーナー。ニーチェの言うところの「苦痛をはらむ歓喜」を感じつつ、完走を目指したいと思います。
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2010年02月04日

39〜42回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

39 若い芸術(1/9)
40 「一葉舟」事件@(1/16)
41 「一葉舟」事件A(1/23)
42 戦いのあと(1/30)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
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