2010年01月30日

青江脚色版「雪の女王」

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今週の評伝は、写真は「雪の女王」ですが、中身は「一葉舟」事件の後日談です。やはり、なかなかこのネタから離れられません。というわけで、写真だけ掲載して内容についてはまったく言及できなかった「雪の女王」について、少しここでご紹介します。

「雪の女王」といえば、たぶん誰でもタイトルくらいは知っている、アンデルセンの有名な童話です。主な登場人物はカイ(男の子)とゲルダ(女の子)、そして雪の女王の3人ですが、ストーリーの中心は、雪の女王にさらわれたカイを取り戻すために、ゲルダが長い旅をし、さまざまな危険をくぐり抜ける部分で、さらわれたカイも、さらった雪の女王も、ほとんど出てきません。そしてラストは、苦難の旅を終え、やっと雪の女王の宮殿にゲルダがたどりつくと、雪の女王は外出中(おいおい)、それでゲルダはその涙でカイの凍った心を溶かし、正気を取り戻させてつれて帰ってめでたしめでたしという、何ともアンチクライマックスなお話しなのです。この手のストーリーの場合、ハリウッド映画やアニメやゲームなどでは、いろいろな苦難の末に、ラスボスのところに乗り込み、そこで最後の大立ち回りがあるのが「お約束」で、そこがまさに手に汗握るクライマックスなのですが、吟遊詩人たるアンデルセンは、そういった予定調和には興味がなかったのでしょうか。

数年前に、あの宮崎駿監督が影響を受けたという旧ソ連製作のアニメ「雪の女王」を見ました。この作品のゲルダはまさに「愛のために戦うヒロイン」といった趣で、ナウシカなんかを思わせる部分もあるのですが、それでもラスボスである雪の女王との対決シーンは、にらみあっているうちに女王が消えてしまうという、ごくごくあっけないものでした。とはいえ、原作には三者の直接対峙さえないことを考えると、ラストを盛り上げるための工夫はこらしていたというべきでしょう。それにしても、原作でもこのアニメでも、とにかくカイは「へたれ草食系男子」で、いいところがほとんどありません。こんな男のために、どうしてゲルダは命がけで旅をしてきたのか首をかしげてしまいます。

・以前「凍える鏡」との関連で書いたブログ

さて、そんな「雪の女王」を、青江はいかにアレンジしたのでしょうか。結論から言いますと、上に書いたいくつかの問題点が、かなりいい具合に脚色されていると私は感じました。作品のクライマックスで雪の女王の宮殿にたどりついたゲルダは、その涙でカイを正気に戻します(ここまでは原作どおり)。そしてカイは、かねて雪の女王から出されていた問題の答え(「永遠」という言葉)を自分で見つけだし、それを、外から戻ってきた女王に示すのです。「これがわかれば自由にしてあげる」と女王に言われていたからで、その約束どおり、女王は2人を解放します。はでなバトルはありませんが、理にかなったクライマックスですし、カイも充分に知的で魅力のある男の子として描かれ、これならゲルダや雪の女王が彼に好意を示したのも納得できます。

なお、「永遠」という言葉うんぬんというのは原作にもあるエピソードですが、原作では、正気に戻ったカイが嬉しくて踊り回り、そのあげく疲れて倒れた形がたまたま「永遠」という文字を綴っていた、という風になっており、しかも、そのあとに雪の女王も登場しないため、あまり、問題が解けたというカタルシスもありません。先ほど紹介した旧ソ連版のアニメでは、そもそもこの「永遠」の部分がすべてなくなっています。もっとも、これは旧ソ連版だけではなく、それ以外の児童向けの演劇、絵本などでも、ここは難解なので、ストーリーから省かれることが多かったようです。しかし青江にはそれが不満だったようで、劇団ひまわりの上演プログラムでも、「そこにあらわされているアンデルセンの思想は、いまでも、わたくしたちが生きてゆくために、いちばんたいせつなものなのです」と強調しています。

青江は児童劇の脚色も数多く手がけましたが、「雪の女王」は、私が知る限り、このジャンルの代表作の1本に数えていいと思います。あの泥沼の「一葉舟」事件のさ中、こういう丁寧な仕事をしていることに、あらためて敬服する次第です。

yuki02.jpg クリックで拡大します
posted by 室長 at 12:54| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月23日

やられた方は忘れない

sojo.jpg 東京地裁に提出した訴状(1959年11月13日付)


本日掲載分では、「一葉舟」事件の一応の解決までを書きました。

青江が東京地裁に提訴してから示談が成立するまでの約一カ月、久保田万太郎は民事裁判の被告人だったわけですが、久保田側の人間が書いた伝記などには、そのあたりの状況が正確に書かれていません。後藤杜三は「裁判沙汰になりかけた」と書いていますが、青江は実際に訴訟を起こしているので、「なりかけた」は誤りです。当時のことをきちんと記した刊行物がほとんどないため、「事実の記録」として今回はあえて活字にしました。同じように、久保田の死後刊行された全15巻におよぶ『久保田万太郎全集』にも、「一葉伝」は入っていません。莟会のパンフレットでは「すべては自分の創意である」と自信満々に長文を載せ、側近も「あれは久保田作品といっていいもの」などと雑誌で発言しながら、最終的には青江の作であることを認めざるを得なくなり、あとは「なかったこと」です。

「盗用した側」と「された側」とでは、圧倒的に「された側」がダメージを蒙ることが多いようで、実にやり切れません。「した側」は、他人の作品を奪っておいて、ばれなければ知らん顔、ばれても形式だけの謝罪をして、あとはやはり知らん顔です。そしてしばらく経てば、そんなことを自分がしたのかさえ、忘れてしまうように思えます。「された側」は、それを忘れることなど到底できないのですが。

しかしこれは盗用事件に限らず、およそ事件と呼ばれるものすべての被害者と加害者について言えることのようです。アメリカは歴史が続く限り真珠湾を忘れないでしょうし、日本が広島と長崎を忘れることもないでしょう。被害者感情というものに、時効はないのです。今日の朝刊で、足利の女児殺害事件で無期懲役とされ、その後釈放された人が、当時の検事に対して「謝って欲しい」「一生許さない」と発言したというのを読んで、被害者の感情というのは、まさにこういうものだろうと思いました(しかし、この元検事が公の場で謝罪した方がいいかといえば、そうとも言い切れないのですが…)。

「一葉舟」事件についても、もう50年以上も前のことで、私などはまだ生まれていなかったにも関わらず、当時のことを調べれば調べるほど、久保田やその側近の行動に怒りがこみ上げて来ます。家族というのは、遺品や財産といった物理的なものだけでなく、その体験や感情までも「相続」するもののようです。私が脚本家ではなく監督というポジションを選択したのも、「脚本を書いて現場に渡すだけでは、どんな使われ方をされるかわかったものではない」と、実にこの事件から学んだからでもあります。だから、これまで公開した映画作品は、すべて、私が一人で脚本を書き、現場で演出し、編集までを手がけています。青江の人生から教わった大きな教訓といえるかも知れません。

というわけで、連載では努めて感情を抑えた書き方をしているので、この欄で少しガス抜きをさせていただきました。お付き合いいただきまして恐縮です。来週以降は、ぼちぼち新展開を迎える予定です。
posted by 室長 at 12:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月16日

「一葉舟」事件に突入

評伝は今週から「一葉舟」に関する著作権侵害事件に突入です。50年以上前のこととはいえ、青江の劇作家生命をなかば奪うことになった由々しき出来事であり、身内としては非常に気が重く、筆も重いです。

この事件での青江は被害者であり、評伝も青江側から描くため、どうしても客観性を欠いたものになってしまう可能性は高いのですが、できるだけ中道を行くために、青江自身が事件について書き残した文章だけではなく、事件当時の新聞や雑誌の記事、1939年初演時のパンフや1959年の「一葉伝」パンフ(莟会と新派公演の両方)、さらには東京地方裁判所に提出した訴状など、なるべく多くの資料に当たるようにしています。

上記のほかに、久保田万太郎側の人間が事件のことを記した書籍類がないか探してみましたが、久保田側にとってあれは「なかったこと」にされているためか、あまり収穫はありませんでした。戸板康二の『久保田万太郎』と後藤杜三の『わが久保田万太郎』では、ごく簡単に事件について触れていましたが、どちらも本質に迫るものではなく、後藤に至っては「松竹側の手落ちであったのだろうが…」と、まるで久保田に責任はなかったような書き方です。このように物事というのは、常に見る角度によってバイアスがかかってしまうので、残念ながら、完全な中道というのは難しいかも知れません。

なお、この事件には一切触れられていなかったものの、川口松太郎の書いた『久保田万太郎と私』という本は予想外に面白く、そんなつもりはなかったのに、一気に読了してしまいました。さすが自ら大衆作家を任ずる川口松太郎、文章に有無を言わさぬ吸引力があるのです。この本には、川口が16歳の時に26歳の久保田に弟子入りし、以来半世紀近くにおよんだ2人の交遊が詳しく書かれています。これを読むと、久保田という人間は、「好きな相手をいたぶって楽しむ」という、あまり人間として高尚とは言えない趣味を持っていたことがわかります。川口自身、何度もそういう仕打ちをうけ、その度に逆上して義絶を宣言したようです(しかし結局は、時間とともに寄りを戻すのですが…)。青江に対する理不尽な仕打ちも、そういった久保田の性癖に由来していると思えなくもありません。苦労人の川口はそれに堪えて、最後まで久保田との付き合いを続けますが、愚直で融通の利かない青江は、それを真に受けて宣戦布告をした、というようにも受け取れるのです。
posted by 室長 at 14:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月31日

35〜38回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

35 少年西遊記(11/28)
36 そのころ(12/5)
37 法隆寺@(12/12)
38 法隆寺A(12/19)

※JPG画像です。拡大ボタンを押してお読み下さい。
posted by 室長 at 16:19| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月26日

年の瀬の番狂わせ

今回の評伝では、青江が編集長を務めた雑誌『若い芸術』のことを…、と書きたいところなのですが、何と、昨日の夜に2010年度の政府予算案が発表されたため、紙面がそれに大きく割かれることになり、学芸欄はまるまるその犠牲になったのでした。よって、本日掲載予定分は、来年1月9日に掲載です。1月2日も新聞休刊日のため、2週続けてのお休みとなってしまいました。

こちらとしては、キリのいいところまで話を進めて、あとは来年のお楽しみ、としたかったのですが、こればかりはどうしようもありません。というわけで、このブログも今年はこれで打ち止めとさせていただきます。どなた様もよいお年をお迎え下さい(年内掲載分の連載画像は数日中にアップする予定です)。
posted by 室長 at 18:43| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月07日

『火の起原の神話』復刊

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青江が翻訳をし、1971年に角川文庫から刊行された『火の起原の神話』が、このほど、ちくま学芸文庫から復刊されることになりました。発売は今月9日で、出来上がり見本が一昨日こちらの手元に届いたばかり。評伝連載や資料展示というイベントが続く中での復刊とは、何とも嬉しいタイミングです。しかし、この本がふたたび陽の目を見るまでのプロセスは、それほど簡単なものではありませんでした。

この本は、未開社会の神話や呪術、信仰などの研究書『金枝篇』で知られる人類学者ジェームズ・フレイザーが、世界各地の民族が語り伝えてきた「火」の起原にまつわる神話を一冊にまとめたもので、青江は戦後、まず『金枝篇』を、そして次にこの本を古書店で手に入れます。
私の戯曲「火」との親近感で気持がはずむ。読むと意外にやさしく、これなら自分でも訳せそうだと思った。(中略)だがそのころはわが国でも民族学や民俗学がしだいに流行して来ていたから、おそらくこの本も誰かが訳してどこからか出るだろうとそれをあてにした。
(あとがきより)

ところが、それから20年近くが過ぎても、翻訳本が出る気配が一向にないため、それならば、と、自分が訳すことを決めたといいます。しかし、青江は本人も認めるとおり、神話学や民俗学については「アマチュア」です。したがって、学術書と向き合うというよりは、あくまで「一般向けの読み物」を訳すという姿勢でこの仕事に取り組んだようです。

今回、ちくま学芸文庫の編集部の方から復刊のお話しをいただいた時、「民族や動物の名前など、当時と現在とで呼称が異なっているものは適宜修正させていただいていいですか?」と相談され、「もちろん構いません」とお答えしたのですが、念のためゲラを見せていただいたところ、その修正の数が半端ではないのです。全部に目を通すだけで、たっぷり2日かかりました。

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編集部の方によると、この本が出た当時と違い、現在ではインターネットなどの普及で、誰でも簡単に物を調べることが出来る、だから表記の間違いなどには細心の注意を払いたい、とのことでした。もっともな話です。しかし、よくよく修正箇所を見ていくと、民族などの呼称だけでなく、あきらかに誤訳と思われるところや、うっかり訳し忘れているところ(こんなことがあるの? と正直大変驚きました)にも筆が入れられています。編集部では原著と首っ引きで、数カ月を要して本文全体の細かいチェックを行ったというのです。まさに「学芸文庫」の面目躍如です。

「これなら最初から訳し直しをした方が早かったんじゃないですか?」
と思わず聞いてしまうくらい、青江の訳は、ある意味アバウトでした。さすがに「アマチュア」だと自ら断りを入れるだけのことはあります。しかし編集部の方は、
「いえ、でも青江先生のお訳は、劇作をやられているだけあって、物語として大変面白く読めるようになっていて、学者の方の固い訳とは違うよさがあると思います」
との嬉しいお言葉。その上、
「もし青江先生がご存命でしたら、直接お目にかかって、いろいろとお話しをうかがいながら、作業を進めたかったです」
と残念そうにおっしゃるのです。青江はそういう探究心旺盛な人たちと議論を戦わせるのが何より好きな人だったので、それを聞いて思わず胸が熱くなりました。本当に、そういう場が持てれば、本人もどんなに嬉しかったことだろう…と。しかし、亡くなってもう25年以上も過ぎた人に対して、そんな気持ちを抱いて下さる方がいることに、「作家の幸福」を感じたりもしました。書いたものを通して、青江は今もこの世と関わりを持ち続けているということ…。

青江の持つ劇作家の筆致と、ちくま学芸文庫編集部の緻密な検証が合体した今回の『火の起原の神話』は、まさに決定版というにふさわしいものだと思います。書店で見かけましたら、是非お手に取ってご覧下さい。
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火の起原の神話
J.G.フレイザー 青江舜二郎・訳

ちくま学芸文庫 文庫判 368頁 刊行 2009/12/09
ISBN 9784480092687 JANコード 9784480092687
定価1,260円(税込)

・筑摩書房ホームページ
・Amazonで詳しく見る

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2009年12月05日

モンテンルパ望郷の歌

本日掲載の評伝では、昭和20年代後半の青江の仕事をいろいろと紹介しましたが、その中のひとつに映画「モンテンルパ望郷の歌」(1953)の脚本があります。作品に関わったいきさつを青江は次のように書き残しています。
鎌倉アカデミアは四年目でつぶれてしまったが、それ以後足立(欽一)さんにどこからか金がはいったらしく、私がラジオ東京にいる時「六百万ばかりあるが何をしようか」という相談をもちかけられた。
「貸しスタジオをおたてなさい」
私はすぐさま言った。ラジオ東京につづいて、やがて文化放送も生れようとしていた時で、テレビの機運も動いておりスタジオはいくつあっても足らなかったのだ。しかし足立さんはそれがピンと来なかったらしく、重宗和伸監督で映画をつくりたいがどうかという。戦争中つくられた「小島の春」その他、重宗さん(製作)の映画にはじつにいい味があり、その人がらも、アカデミアでのつきあいで私には好ましかった。そこで私は材料を探し、フィリピンのモンテンルパの収容所で、死刑の日を待っている日本人捕虜の生活を書いた単行本『残された人々』をとりあげてシナリオにする。新派新劇のヴェテラン総出演の豪華なキャストで、その点でも重宗さんの信用が大きくはたらいていた。作品は文部省の特選になったが、配給の話がうまく行かず、足立さんはそのため大変な打撃を受けることになり、それ以後また起ち上ることができないままに、世を去ってしまった。
(「宿縁花柳章太郎」より)


091205_01.jpg 『残された人々』(左)と印刷台本


キャストが豪華な割に、配給会社がなかなか決まらなかったのは、重い現実を下敷きにした作品で、娯楽的要素に乏しかったからのようです。しかし、どうにか大映が配給を引き受け、1953年7月22日に公開。折りしもその日は、元死刑囚の方たちが釈放され、日本に帰還した当日で、新聞も紙面で大きくそれを取り上げました。青江も釈放された人たちの出迎えに、横浜港まで行っています。


091205_02.jpg 当時の朝日新聞


これだけタイムリーだと、映画の方も大入り満員を期待したくなりますが、結果は芳しくありませんでした。配給会社決定から公開までが2ヵ月と短く、充分な宣伝ができなかったのが大きな敗因のように思えますが、何より、宣伝予算が不足していたのでしょう。独立プロ製作の映画というのは、作品完成には何とかこぎつけても、その後の配給まで力が及ばず、惨憺たる結果に終わるということが多いのですが、その辺の事情は昔も今もあまり変わっていないようです(私自身も身に覚えがあるので、書いていて辛いものがあります)。足立欽一の逝去は公開の翌年ですから、やはり公開の失敗が身にこたえたのでしょう。


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公開前日の朝日新聞に載った広告。個人的にはとなりの「さすらひの湖畔」も気になるところ(主演がキリヤマ隊長!)


いずれにしろ、青江が参加した数少ない劇映画です。どこかで観ることは出来ないものかと思って調べてみましたが、当然のことながらビデオ化、DVD化などは一切されていませんし、フィルムセンターの収蔵作品リストにも入っていません。製作元の重宗プロはもはや存在せず、最後に、大映映画作品の著作権を管理している角川映画に問い合わせてみたところ、「当方でも作品原版の所在はわかりません」との返答でした。差し当たって、プレスシートだけはコンテンツ事業部に保管されていたので、その画像を送ってもらったのですが、この幻の映画は、果たして今どこに眠っているのでしょう。どなたか、有力な情報がありましたらお教えいただきたいと思います。


091205_04.jpg 当時のプレスシート


なお、今年の9月12日に『戦場のメロディ 〜108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌〜 』というドキュメントドラマがフジテレビ系列で放送されました。歌手・渡辺はま子(演・薬師丸ひろ子)や教誨師・加賀尾秀忍(演・小日向文世)の尽力により、モンテンルパの死刑囚108人が釈放され日本の土を踏むまでが描かれており、不意打ちのような死刑執行や、オルガンを囲んで「あゝモンテンルパの夜は更けて」を刑務所内で歌うシーンなど、この映画と重なるところの多い作品でした。
1952年10月の青江の日記には、「渡辺はま子に交渉の件…日劇の楽屋に寄る。彼女丁度出番を終えたところなり。モンテンルパのこと話す。好意的な返事なり」という記述があり、その2日後には今度は彼女の事務所を訪ねていますから、映画の冒頭かエンディングで、渡辺はま子の歌う「あゝモンテンルパの夜は更けて」を使うという計画があったのかも知れません。
「モンテンルパ望郷の歌」
公開日:1953年7月22日 配給:大映
製作:重宗和伸 監督:村田武雄 脚本:青江舜二郎 撮影:杉本正二郎 音楽:津川主一
出演:芥川比呂志、杉村春子、小堀明男、荒木道子、佐々木孝丸、石黒達也、小堀誠

※今回掲載の画像はすべてクリックすると拡大します
posted by 室長 at 13:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月28日

猿若清三郎さんが語る「少年西遊記」(1)

本日掲載の評伝では、青江が脚本を担当した日本テレビ開局当初の連続テレビドラマ「少年西遊記」(1953〜54年)のことを書きました。このドラマで主役の孫悟空を演じたのが、舞踊猿若流の8世家元・猿若清三郎さんです。ご多忙のところ稽古場にお邪魔して、いろいろと当時のお話をうかがったのですが、紙面では、そのごく一部しか紹介することができませんでした。そこでこの場を借りて、インタビューの完全版をお届けしたいと思います。黎明期のテレビ制作現場の熱気を今に伝える貴重な証言、どうぞごゆっくりお読み下さい(かなりのボリュームなので、3つに分けてアップします)。

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猿若清三郎 さるわか せいざぶろう

猿若流8世家元。父は猿若流7世家元(流祖)猿若清方。長男は同師範の猿若裕貴。
1941年、東京都生まれ。1950年、9歳で中村吉衛門劇団に入団。中村勘三郎(17代目)の部屋子となり、「中村ゆたか」を許名される。同年、歌舞伎座にて初舞台を踏む。1953年、日本テレビ制作の「少年西遊記」に主演。フジテレビの開局ドラマでも主演を務める。
1959年、吉衛門劇団を退団し大映映画株式会社に入社。「中村豊」の芸名で俳優として活躍していたが、1965年、同社を退社し、以後は日本舞踊家として振付・指導を中心に活動。
1981年、8世家元を襲名。1988年、NHK大河ドラマ「武田信玄」の所作指導を担当。これ以降、大河ドラマや金曜時代劇の振付・所作指導を数多く行う。現在、全日本舞踊連合理事長。


大嶋 そもそも、この「少年西遊記」に出演することになったきっかけは、どういうものだったんでしょうか。

猿若 私はそのころすでに中村吉衛門劇団に所属していまして、戦後の歌舞伎座の柿落とし(1951年)が初舞台だったんです。そういう芸歴があったからかも知れないんですが、ある時に中村時蔵さん(4代目)経由で話が来まして。ご親戚に日本テレビの上層部の方がいらしたらしいんです。それで、「今度日テレが開局して夕方の子ども向けドラマを始めるから、出演者のオーデションを受けてみて欲しい」って言われて…。一般募集だけでは心もとないということだったんでしょう。

※当時の模様を伝える「家庭よみうり」の記事によれば、主人公グループ(孫悟空、三蔵法師、猪八戒、沙悟浄)を決めるオーディションに、200人以上の応募があったという

大嶋 では、一般に応募されて来た人たちと同じようにオーデションを受けて…

猿若 ええ。紹介はされていたんだけど、行ってみたら知らない人ばかりで(笑)。そのころの日本テレビはスタジオが3つしかなくて、主にドラマをやる1スタと、公開番組をやる2スタが同じくらいの大きさ、あとは、デスクだけ置いてあってアナウンサーがニュースを読むくらいしかできない8畳くらいの3スタです。オーディションはその3スタでやりました。

大嶋 オーディションでは具体的にどんなことを?

猿若 台本のセリフの一部を読まされたり、あとは経歴を聞かれて…。そんな中で、歌舞伎に出ていることなんかも話したと思います。そのあと、1〜2週間くらい経ってでしょうか、「採用されました」という合格通知が来て、また日テレに行ったら、「君はこの役だよ」って言われたのが「孫悟空」だったんです。

※青江の随想には、「少しもじっとしていず、そこらのものをいじったり、とびまわったりする、きわめて動物的な感じで、どんな身振りの問題にもたちまち反射的に対応し、しかもそれが実に適確で審査員やスタッフを驚かせた」とあるから、ほぼ満場一致で猿若氏に決まったようだ

猿若 あとはもうバタバタでした。決まったとたん、孫悟空の形を…メイクの大関早苗さん(美容家)がいろいろ工夫して、「人間だけど猿の顔」を作りたいと、カメラに映ったらどうだこうだってカメラテストばっかりやらされて…。

大嶋 そのころの記録を見ると、俳優が決まってから第一回目の放送まで、10日くらいしかなかったようですからね。他の出演者はどんな顔ぶれだったんでしょう。

猿若 三蔵法師をやった「桐ちゃん」こと笠間桐子は、俳優の笠間雪雄さんのお嬢さんで、本人も劇団東童に入っていました。だから、彼女と私は一応経験者だったわけですが、あとは応募者の中から選ばれた本当の素人です。


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左から笠間桐子(三蔵法師)、大森春美(猪八戒)、青江、斉藤泰徳(山の神など)、堀越ゆたか[猿若清三郎](孫悟空)、斉藤晄朗(沙悟浄)


大嶋 「斉藤」という苗字の人が2人いるんですが、ご兄弟では?

猿若 ああ、これは赤の他人なんですよ。たまたま同じ「斉藤」が選ばれて…。

大嶋 猿若さん、笠間さんとそれ以外の人たちとは、現場ではどうだったんでしょうか。やはり、立ち位置の違いみたいなものはありましたか?

猿若 このくらいの年だと、やってる最中はそんなことはないですね。

大嶋 じゃあみなさん、それなりに仲良く…

猿若 そうですね。ただ、演出やスタッフとの口の利き方に、いくらか違いがあったかも知れません。プロと演劇部の違いっていうんでしょうか。彼らはスタッフにも、「次、どうやるの?」と友だち同志の感覚で質問していて、スタッフが説明してやると、「恥ずかしいよ、そんなの」みたいな反応でした。普通の小学生ですから無理もないんですけど、僕や桐ちゃんはそんな風にはちょっと言えなかったですね。

大嶋 そのころのテレビはすべて生放送ですから、いろいろご苦労も多かったと思いますが…。

猿若 もうたまんなかったですよ(笑)。当時はテレビ自体が始まったばかりで、演出家もスタッフもすべてが初心者でしょう。その上こっちも子どもだから、次のセットに飛び込んでいくのが間に合わないとかなんてことがよくあって、ドタバタの連続でした。(台本をめくって)このガリ版印刷の台本、今ではこんなにペチャンコだけど、当時はぶ厚くてね。しかもよく差し替えも出て…。何人かが分担して書いているから字が途中で変わるんですよね。読めない漢字も多くて、青江先生に「これ何て書いてあるんですか」なんて、よく聞きましたね。


daihon01.jpg 記念すべき第1週分の台本。1〜3話で1冊になっている


大嶋 この番組は、最初は月・水・金の週3回放送していましたが、本番までの流れはどういった感じだったんでしょう。

猿若 まず土曜日に1週間分の本読みがあって、日曜に立ち稽古、そして月、水、金の夕方に本番という流れだったと思います。そのころのテレビはお昼間と夕方からしか放送してませんでしたから、お昼間の放送が終わったあとスタジオに入って3〜4時間ドライリハーサル(テレビカメラを回さずに行うリハーサル)、特殊効果の段取りの確認なんかもこの時にやります。本番の30〜40分前でリハーサルは打ち切って、メイクのやり直しだとか衣裳の点検をして、それから本番という繰り返しでした。

大嶋 そうなると、結構な時間拘束されますよね。

猿若 そのころは12歳で小学校6年でしたが、学校には午前中だけ行って、午後はほとんど早退でしたね。すでに歌舞伎に出ていたんで、学校側は承知してくれていたんです。

大嶋 台本や当時の番組表を見てみると、放送時間が2回変わっているんですよね。番組開始からしばらくは月・水・金で1回10分だったのが、第13話から月・金の週2回、1回15分になって、さらに年明けの1954年1月の第26話からは毎週金曜日の30分番組になっています。この時に題名も「少年西遊記」から「少年孫悟空」に変わっています。

猿若 題名まで変わっていたんですか。それは記憶になかったですね。でも、放送時間が変わったのはよく覚えています。回数が減るってことは、評判悪いの?って、子どもながら不安になったものです。実際には最後まで1週30分で、トータルの時間数は変わっていないんですが。

大嶋 でも、生放送で30分ぶっとおしは大変ですね。

猿若 そうですよ。それまでは10分、15分ずつセリフを覚えればよかったのが、30分、全部覚えなくちゃいけない。特に孫悟空は毎回ほぼ出ずっぱりですから。でも、30分になってからの方が、お話の内容というか、進行状況はきちんとつかめるようになりましたね。10分の時は、あっという間に終ってしまうから、やってる方も何が何だか…(笑)。

(2)につづきます
posted by 室長 at 08:20| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

猿若清三郎さんが語る「少年西遊記」(2)

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「少年西遊記」の放送スタジオ(1スタ)。カメラは2台で、4つのセットが組まれている


大嶋 日本テレビ開局当時のテレビ受像機の普及数は、全国でわずか3ケタ(1,000台以下)だったそうで、そうなると、果たしてどれくらいの人がこの「少年西遊記」を見ていたのか?というのも気になるところなんですが、周囲での反応はいかがでした?

猿若 学校では、友だちの間よりも先生の反応の方が大きかったですね。「きみ、出てるねえ」なんて言われて…。そのころはテレビのある家に行かないと見られなかったから、先生がたも、どのくらい見ていたかはわかりませんが。

大嶋 猿若さんのご家庭にテレビは?

猿若 最初はなかったですね。ですから、祖父と父が変わりばんこに日テレに来ていましたよ。そうじゃないと見られないから。付き添いがてら、副調整室のモニターや、日テレの中のコーヒーショップに置かれたテレビで本番を見ていました。

大嶋 テレビというのは、普及率はまだまだでしたが、話題性は大変なものだったようですね。

猿若 ええ。ですからずいぶん取材はありました。物珍しいから。でも、こっちはハラハラするんですよ。本番やその前は集中したいですからね。こんな時間取ってられないのになっていうのはずいぶんありました。それから、当時の日テレには、テレビ塔を見に来るお客さんが多くて、玄関の通路を突き抜けると、窓からスタジオの様子が見えるんですよ。さすがに本番は入れないんですが、リハーサル中はギャラリーが見学していることもよくありました。演出家がいやにきどって喋りだしたと思ったら、団体客が見ていたりとかね(笑)。

大嶋 青江は随想で、「『西遊記』と言えばミスの代名詞、と言われるくらい失敗(放送事故)が多かった」と書いていますが、具体的に何か覚えていらっしゃいますか?

猿若 やっぱり一番は、燃えているお寺のミニチュアにスタッフが水をかけちゃったという…。

大嶋 ああ、青江も随筆に書いていますよ(以下、随想集「引っ越し魔の調書」より引用)。

 「少年西遊記」の第何回目だったかに大きなお寺がやけるシーンがあった。これは『サンデー毎日』の批評にもほめられた通り、ミニチュアをつかった特殊技術で、わずか一、二寸の炎が、えんえんたる大火に見えるのがミソなのだが、そのことが不幸にも、スタジオ班全員に、事前に徹底していなかった。いよいよ火事の場面になると、一人のスタジオマンは、
「スワコソ! 失火」
 とばかりに、やにわにバケツに水をくんで来て、ミニチュアの前におどり出すなり、ザブリと水をぶっかけた。それがそのままカメラに入って、あたら技術も夢のあと、水の泡とぞ消え失せて、ディレクターも、フロアマネジャーも、思わず、
「ウワア、マジイなあ!」
 と叫んだ、その叫び声さえきれいに入って、それからあとはてんやわんや。まことにオカしくもまた悲しきことでございました。


猿若 僕の記憶だと、水をかけたのは小道具美術の蒲生さん(後に日本テレビのディレクター)で、「これ以上火が大きくなると危ない」っていう判断だったと思います。スタジオ管理の人間に注意されてあわてて処置したのかも知れませんが。

大嶋 いずれにしろ、カメラを切り替える間もなく、それがそのまま放送されてしまったわけですよね。


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リハーサル風景。右から2人目が青江、左から2人目が猿若氏


猿若 あとは、やっぱり生放送ですから、時間の制約で苦労したことが多かったですね。本番の途中から、FD(フロアディレクター)が指をくるくる回して「巻き」(急げ)のサインを出すわけですよ。こっちはトンボじゃないよっていうくらい(笑)。それでいて今度は、もう番組の終わりくらいになって、いきなり両手を引っ張って「のばせ」のサインですよ。もう私なんか敵に縛りつけられてやることなくて、仕方なく、悪い魔王がアップでえんえん「わっはっはっは」って、1分近く笑っていたことがあります。その魔王も最後はとうとう笑いながら涙声になってしまって…。あれはおかしかったですね。

大嶋 1分も時間がずれるっていうのはすごいですね。本読みをやって、リハーサルもやっているわけですから、スタッフも当然時間配分は考えていたと思うんですが…。

猿若 そうなんですが、今思うと、タイムキーパーの測り方も幼稚だし、出てる僕らも幼稚だし、島田正吾先生みたいに、何回やっても同じ分数、みたいにはいかないじゃないですか。

大嶋 なるほど。テレビそのものがまだ「よちよち歩き」だったっていうのがよくわかりますね。ところで、その当時コマーシャルは入っていたんですか。

猿若 最初のうちは「サスプロ」(放送局自身が制作費を負担する番組)でしたけど、最後の方にテスト的にスポンサーが入ってきました。たしか、万年筆会社だと思うんですが…。これも傑作でして、ドラマが全部終ったあとでカメラが切り替わって、新劇の俳優さんが「みなさん、入学のお祝いに是非、○○万年筆を…」と生コマーシャルをやるんですが、その俳優さんも初めてで緊張したんでしょう、いきなりライバル会社の名前を言ってしまって。僕たちは子どもだからゲラゲラ笑ってたんですが、その俳優さんは二度と使ってもらえなかったみたいです。


interview01.jpg 当時の台本をめくりながら、話は尽きることなく…


(3)につづきます
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猿若清三郎さんが語る「少年西遊記」(3)

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クランクアップの記念撮影(1954年3月26日)


大嶋 青江は脚本だけでなく、かなり現場にもタッチしていたようですが。

猿若 そうですね、私の記憶では、最初の1週目は当然全部いらしていて、2、3週目は本読みだけだったような気もするんだけれど、そのあたりでいろいろとミスが続いたもんだから、それ以降は、いないとまずいと思ったんでしょう。立ち稽古かドライリハーサルのどちらかには必ず立ち会われてましたし、本番は、演出と一緒に副調整室で見ていました。現場への関わりは深かったですね。

大嶋 演出家は別にいたわけですよね。

猿若 そうです。日テレの社員ディレクターで、まだ20代の後半くらいだったかな。今だと、演出家のひとことでカメラも照明も動いてくれますよね。でも当時は、演出家もカメラも照明も全部社員でいわば同格だから、意見のぶつかり合いになっちゃうんですよ。それを青江先生が制してたみたいな感じでしたね。

大嶋 青江はもう40代の後半でしたし、立場も社員ではなく嘱託でした。だから強く言えたんでしょう。

猿若 それでよかったんですよ。誰かがビシッと言わないとまとまりませんから。青江先生はプロの作家さんで、あとのスタッフは経験が浅いな、と子どもながらに何となくわかっていましたね。

大嶋 そうなると、演出家にダメ出しをすることなんかも…

猿若 ええ。青江先生は若いディレクターにはずいぶんどなってましたよ。ドライの時なんか特にね。「そんな言い方したんじゃ、やってる方はわかんないだろう!」「この一行はどっちからどっちへ行くんだ!」なんて、要するに、もっと子どもたちに理解できるように説明しろと。それを見て僕らは、「怖いおじさん」と思ってました。

大嶋 猿若さんたちに対しては、どうだったんでしょう。

猿若 いや、僕らにはそんな風におっしゃらないんです。「だめだよ、そんなとこで遊んでないで」みたいなことは言われるけれど、あとはリハーサルの時、「あ、そこはもっと真剣な方がいいな」っていうくらいで。


daihon37.jpg 最終回の台本。題名が「少年孫悟空」になっている


大嶋 ほかに現場で印象に残っていらっしゃる青江とのエピソードがあれば、是非うかがいたいのですが。

猿若 そうですね。主人公として、役にどう取り組むか―孫悟空は人間なのか、猿なのか―ということは、何回か相談した覚えがあります。

大嶋 それに対して、青江は何と?

猿若 「こことここ、と決めたところだけは猿っぽくやってよ、それ以外のところは、孫悟空は擬人化した存在なんだから、人間で構わない。立ち回りをやって、決めのポーズの時だけ『キーッ』とやって猿になってくれ」というようなことをおっしゃいました。そういう、役の本質に関わるようなことは、ディレクターよりも青江先生にお聞きしましたね。

大嶋 台本を読むと、孫悟空と悪い魔王の術比べがあったり、かなり特殊撮影にも工夫が凝らされていたようなんですが。

猿若 ええ、いろいろやりましたよ。クロマキーを使って、パッと出るとか消えるとか、でも衣裳の中にブルーが入ってて、いるはずの人間まで透けちゃったりね(笑)。

大嶋 そのころ、すでにクロマキーが使われてたんですか。

猿若 ええ、炎に包まれて「あちいあちい」なんていうのも、自分の回りには何にもないのに、ブルーの幕の前で一生懸命演技しました。それから、雲に乗って飛ぶところは、後ろからスクリーンに風景を投影する、いわゆるスクリーンプロセスを使っていましたね。

大嶋 なるほど、「フィルム素材を用意」と台本に書かれていたりするんですが、これは多分投影用ですね。

猿若 そうですね。雲とか炎なんかはフィルムで撮影されてたんでしょう。


songoku.jpg 「家庭よみうり」より


大嶋 そういった特撮とは別に、生身でのアクションシーンも多かったようですね。

猿若 ええ。ですから、リハーサルでもそのための時間を結構取りました。僕は踊りをやっていて歌舞伎の世界にもいたから、間だとかイキだとかは体に入っているわけですよ。でも、新劇の人たちはそういう訓練をあまりされていないから、呼吸を合わせるのが大変でした。相手が飛び上がった瞬間に、僕が如意棒でさっと空を切れば、相手がよけたように見えるのに、「先に飛び上がってくれれば僕やりますから」って言っても、なかなかタイミングが合わないんです。でも、年は相手の方が上ですからね、あまり強くは言えないわけです。

※青江の随筆には、「三蔵一行と悪魔妖怪たちとの乱闘の手順など清方氏(スタジオに来ていた猿若氏の父上)をおがみ倒してつけてもらい、孫悟空にはさまざまな六法を踏ませたりした」との記述がある。

大嶋 如意棒が大きくなるのはどういう仕掛けで?

猿若 あれも大変でしたよ。いろんなサイズの如意棒を用意しておいて、場面に応じて取り替えるんです。あと、さっと振ると伸びる如意棒なんかも小道具さんが作ってくれました。でもそれがブリキでね、重いんですよ。実際の大きい棒は軽い白木で作ってありましたけど。でも、それで立ち回りをやると、新劇の人の演技って写実でしょう、思い切り当ててくるわけです。本番で、あっちが折れるならいいんだけど、孫悟空の如意棒が折れたら終わりですからね。だから、途中から重い樫の棒を使うようになったりして、辛かったですよ。

大嶋 あのころはすべて生本番で、ビデオもありませんから、そういったご自身の勇姿は一切ブラウン管でご覧になることはできなかったわけですよね。

猿若 そうなんです。唯一見たのは、タイトルバック用にフィルムで撮ったところですね。テストを兼ねて日テレの庭で撮った…。上れないような高いところに上って、カメラに向かって如意棒を構えて、それでタイトルが出るという…。そこだけは、オープニングで流れるので、毎回見ていました。

大嶋 当時の台本を読んで、今またこうしていろいろなお話をうかがうと、どうにかして実際の映像を見てみたくなります。残っていないのが本当に残念です。

猿若 そうですね。あのころは、テレビというのはその場で流れて終わり、という感覚でしたからね。


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特別番組「楽しいお友達」でのひとコマ。右から2人目が青江、となりが猿若氏(1954年11月27日)


大嶋 「西遊記」の放送終了から8カ月後、当時を振り返る特別番組「楽しいお友達」が放送されているんですが、その後共演者の方たちとは、行き来はなかったんでしょうか。

猿若 それはなかったですね。ですから、桐ちゃんなんて今どこでどうしているのか…。僕と同い年だから、もういいおばさんなんだろうけれど。でも、僕が所作指導に入ってから、こういうことがありました。ある番組の収録現場で「ゆたかさんですか」って声をかけられたんです。相手の俳優さんに見覚えはなかったんですが、その方が、「私、ゆたかさんが孫悟空をやっていた時に、敵の魔王役で出ました」っておっしゃるんです。魔王って言われても、魔王がやたら多かったから思い出せないんですが(笑)。ずいぶんお年を召した方でしたけど、「よく覚えてらっしゃいましたね」ってこっちも何だか嬉しくなって…。そういうことがありました。

大嶋 今日は長い時間、大変貴重なお話をありがとうございました。

猿若 こちらこそ、ありがとうございました。

「少年西遊記」 (第26回より「少年孫悟空」に改題)
放映日:1953年10月19日〜1954年3月26日(全37回)
制作:日本テレビ放送網株式会社
作:青江舜二郎 演出:中村昭二、田島直時 プロデューサー:長谷川仁
出演:堀越ゆたか[猿若清三郎](孫悟空)、笠間桐子(三蔵法師)、大森春美(猪八戒)、斉藤晄朗(沙悟浄)、斉藤泰徳(山の神など)
posted by 室長 at 08:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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