2009年11月27日

32〜34回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

32 鎌倉アカデミア(11/7)
33 新生活(11/14)
34 テレビジョンの時代(11/21)

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2009年11月10日

教え子が綴る、青江の鎌倉アカデミア時代

11/7掲載分の評伝で、鎌倉アカデミアのことを書きましたが、その中で、当時の授業の様子を語って下さった劇作家・若林一郎さん(演劇科2期生)の談話を紹介したところ、ご本人からメールを頂戴しました。
「『鎌倉アカデミア落穂集』(2006年に創立60年を記念して出された記念文集)に載せた思い出から、青江先生についての分をまとめてみました。ブログの材料にでもお使いいただければさいわいです」
とのこと。評伝では字数の制約もあって、充分に当時の模様をお伝え出来たか心もとないところだったので、お言葉に甘えて、若林さんが送って下さった文章を、以下に掲載させていただきます。

なお、若林さんは現在、東京都荒川区のムーブ町屋で、月に一度「紙芝居劇場」を行っています。子どもも大人も楽しめるレパートリーで、次回は11月14日(土)。先日、東京新聞にも取り上げられていました。青江が戦前から深く思い入れていた「紙芝居」という演劇の一形式を、教え子である若林さんが継承しているというのは、大変に感慨深いものがあります。私も年に数回は観させていただいていますが、末長く続いて欲しいと願わずにはおられません。お近くの方は、どうぞお出かけ下さい。

・想像力を引き出す昔話のぬくもり ムーブ町屋の紙芝居劇場(東京新聞 2009年11月7日付)
・ムーブ町屋の紙芝居劇場(イベントの詳細)

青江舜二郎先生の思い出
若林一郎


 日本が太平洋戦争で負けた翌年、鎌倉アカデミアという学校が生まれた。
 光明寺というお寺の本堂をベニヤ板で仕切った教室で、文字通り寺子屋のような学校だった。けれども教授陣はすばらしかった。三枝博音、服部之聡、吉野秀雄、高見順、中村光夫、村山知義……先生方のお名前を並べただけで、その授業を受けた幸せを感じずにはいられない。経営不振で、たった四年間で廃校となってしまった学校だが、そこで学べたことをぼくは生涯の幸せだと思っている。

 先生方のさまざまな思い出は尽きないが、特に青江舜二郎先生は、ぼくら二期以下の演劇科生徒にとっての「師父」だった。鎌倉アカデミアの生活を通して、ぼくらは先生からどれだけ大きなものを受け取ったかわからない。「演劇とはどんなものか」をぼくらに示してくださったのは先生だ。

 先生の「悲劇論」の講義の、回が進むに従って沸き立ってくる、まるで推理小説を読むような興味と感動! それはギリシアのアリストテレスによる悲劇の定義から始まる。アリストテレスによれば、悲劇とは「恐怖と愛憐の情」をかきおこすことによって、観客の心に「カタルシス(浄化作用)」をもたらすものだという。「カタルシス」とはなにか? それ以後のさまざまな演劇論が解明できなかった謎に、ついに二十世紀になってフロイトの理論が光りを当てる。現代科学が到達した人間の深層心理の中に、演劇の本質が隠されていることをぼくらは知る!

「戯曲論」の講義では先生は綿密に方眼紙に書いていらした戯曲の構成を、黒板に写される。菊池寛の『父帰る』やストリンドベリーの戯曲の構成が、クライマックスに到るなだらかな上昇線と、破局から終幕に到る急激な下降線で、手にとるように示される。「起承転結」の説明に四コマ漫画の『サザエさん』を使ったりなさって、楽しい講義だった。
 ドイツ表現派の巨匠・ゲオルク・カイザーの作品が採りあげられたのは、なんの講義のときだったろうか。そのとき表現派と親しんだお蔭で、一時大流行したアングラ演劇をみても少しも驚かずにすんだ。

 先生の講義は、教室だけではなかった。そのころ荻窪に住んでいらした先生のお宅にたびたび押しかけては、お話をうかがった。そのうち劇作家志望の生徒を中心としたアイルランド演劇のゼミナールを先生は開いてくださった。参加したのは四、五人で、月一回ずつ行われた。
 中央線の線路に近い家に先生は間借りをしていらした。狭い急な階段をあがったところが先生のお部屋で、壁一杯に積み上げられた本の間で文字通り「膝つきあわせて」の研究会だった。先生はそのためにいつの間にか小さな黒板を買っていらして、チョークの粉をドテラにこすりつけて、熱心に講義をしてくださった。こちらは戦争中は学徒動員の工場勤めで、ろくに英語の勉強もしていなかったから、先生に渡されたグレゴリー夫人やの原書を読むのに必死になった。

 アイルランド演劇が、祖国の独立運動と共に生まれたときのグレゴリー夫人やイエイツやシングの情熱が、そのまま先生の情熱だった。「もっともインターナショナルな演劇は、もっともすぐれて民族的な演劇なのだ」「民族の心のたかまりを映して演劇は生まれる」という先生の教えに耳をかたむけた夜をぼくはいまだに忘れずにいる。そのころの新劇は、左翼的な思想に支配されていた。それとは異なるものの味方をぼくは先生に教えられた。

 研究会が終わればお酒となった。さしてお手元に余裕があると思えないお暮らしだったのに、いつもお酒が用意されていた。ぼくらは遠慮というものを知らない。かくて研究室はたちまち梁山泊となる。先生は談論風発、秋田人独特の血色のいいひとなっつこいお顔と、体を揺するような哄笑で僕たちを包んでくださった。

 あのころ先生に教えられたことは、ぼくにとっての生涯の指針となった。そして「名利を捨てて生きる」美しさを、ぼくらはアカデミアの先生方に教えられたと思っている。

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2009年11月07日

30、31回分をアップしました

今回の評伝では、鎌倉アカデミアのことを書きました。
青江は最初に教鞭を執ったこの学校にはことのほか思い入れがあったようで、廃校の後も、演劇科の俳優希望の有志を募って「アトミクス」というグループを結成、谷中にあるお寺の一間を借りて1年間、発声などの基礎訓練を行ったといいます。このあたりのお話は演劇科三期生の樋口輝剛氏にうかがったのですが、字数の関係で紙面では取り上げることが出来ませんでした。

ここ2回分の連載画像もアップしておきます。
異端の劇作家 青江舜二郎

30 終戦(10/24)
31 帰還(10/31)

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2009年11月04日

文学資料館で講演

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いきなりの寒波到来で、秋田市内に初雪が舞った11月2日(月)、あきた文学資料館において「異端の劇作家 青江舜二郎 その生涯と作品」と題した講演を行いました。
今回は、魁新報での連載と歩調を合わせるように、終戦直後までの青江の人生と作品を紹介しました。私の話だけでは単調になってしまうと考え、話の合間に、生誕百年記念作品として製作した「水のほとり」(CD)、「実験室」(DVD)の一部を再生、上映しました。こうした視聴覚資料によって、青江戯曲の魅力の一端に触れていただけたのではないかと思います。また、幼少年期や秋田中学時代のエピソードを記述した随想の朗読もいくつか行ってみました。青江の「故郷への秘めたる思い」を、いささかでも感じていただくことが出来たならば幸いです。

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悪天候にも関わらずおいでいただいた多くの方々、そしてこのような機会を与えて下さった、あきた文学資料館および秋田県立図書館の職員の方々に、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

劇作家・青江舜二郎 長男の大嶋さん講演(2009年11月5日 秋田魁新報)
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2009年10月31日

気分は一気に現代へ

ブログの更新が滞っていて申し訳ありません。
先週分で「終戦」を、本日掲載の分で戦地からの「帰還」を書きました。本文中でも紹介した「ああ、やっと終わった」という青江の感慨は、そのままこちらにも当てはまります。体験していない戦争のことを書くのは予想以上に困難な作業で、終わってくれてほっとしたというのが正直なところです。
しかしその一方、戦争中の出来事は、「歴史上のこと」という認識なので距離を置いて書くことが可能なのですが、1946年以降は、私の感覚ではいわば「ひと続き」で、そのまま現代へと直結しています(社会体制の大きな変化がないためだと思われます)。一気に身近かな、生々しいエピソードを書かなくてはならず、別な意味での難しさを感じています。このブログでサイドストーリーを紹介するというのも、これからは控え目になっていくかも知れません。
ともあれ、民主化した日本で青江は果たしてどのように生きていくのか? 今後ともどうぞご愛読をお願いいたします。

なお、あさって(11/2)の15時から、あきた文学資料館で青江についての講演を行います。お近くの方は、是非おいで下さい。

■講演の詳細:平成21年度秋田ふるさとセミナー

posted by 室長 at 16:06| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月19日

27〜29回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

27 一葉舟(10/3)
28 興亜新劇団(10/10)
29 太源から北京へ(10/17)

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2009年10月17日

小澤開作と李香蘭

今回の評伝では、召集解除になった青江が、一度は日本に戻ったものの再び大陸に渡って北京に滞在し、新民会の参事として活動した時代のことを書きました。その時代に交友があった人物としてクローズアップされるのが小澤征爾氏の父親・小澤開作と、映画女優・李香蘭こと山口淑子です。

小澤開作については、最近彼の業績を再検証する動きがあり、昨年6月には『石原莞爾と小澤開作―民族協和を求めて』という単行本が出版されています。そしてその本の第5章では、北京時代の青江のことも、小澤との関わりの中でかなり詳しく記述されています(P.234〜)。

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一方、李香蘭こと山口淑子とのエピソードの方は、1971年に刊行された『竹久夢二』の中で、青江自身が克明に書き残しています。
「もし日本軍が北京に攻めて来たなら、私は城壁の上に立って、どちらかの軍の銃弾に当たって死にたい」という言葉は、山口淑子の自伝である『李香蘭 私の半生』(1987)で描かれて以来、彼女の生涯を追ったドキュメンタリーやドラマ、舞台などに必ず登場し、すっかりおなじみになった名セリフですが、実は青江の『竹久夢二』には、パーティー帰りの彼女の口から同様のセリフが洩れたのを聞いたという記述があります。1987年以前の山口淑子は、自伝の執筆はすべて断っていたといいますから、「城壁に立って…」という彼女の言葉を活字にしたものとしては、青江の著書が、おそらく一番古いのではないかと思われます。ご興味のある方のために、その部分を抜粋しておきましょう。
 ある夜、私は山口淑子とあるパーティでいっしょになり、帰りを彼女の家まで送って行った。入ってお茶をと言う。もうおそいから帰ると言うと、映画の人たちなど、徹夜で話しこんで行くことだってめずらしくないと言われ、それではと応接間に通った。二人の思いは一つ、戦争はどうなるか、日本はどうなるか、そして東洋は―という、いつも私たちを大きな爪でがっしりつかまえてはなさないこの問題がすぐ私たちのロにのばる。話し合っても私たちの力ではどうなるものではないが、しかし話さずにはいられない。お互いがもっている情報を残らずさらけ出してあきれたり、怒ったり、悲しんだり、憂えたり―そのうちに彼女はすっと立ち上がった。あのキラキラする目を一点に据えほとんど叫ぶように、
「私は多くのひとに満人、あるいは中国人と思われているし、また日本軍のスパイとしてシナ側の情報を探っているとも言われてるわ。でもそれはみんなウソ。私はそんな情報を軍なんかに提供したことは一度だってなくってよ。それをあなたなら信じて下さるわね。私はこれでもレッキとした日本人よ。中国人でもなけれは満州人でもなけれは混血でもない。そりゃ子供のころから満州で中国人の間で暮らして、そのひとたちの風習だってよく知っているし、言葉だってあのひとたちと同じぐらいにはしゃべれます。…でも…でも…どうしたって私は日本人。戦争がこんなになればなるほど、その思いはますます強くなるんだわ。日本で暮らした経験なんてまったくないのに、どうしていまになってこうなんでしょうね。でもだからといって私は日本軍のためにスパイするなんていや。そんなことで中国人や満州人を裏切るなんて絶対できやしない。ああ、日本人だけど私は生まれて育った中国がとても好き。それなのにこんな戦争をしているなんて―たまらない。たまらないわ。…私はいつでも、からだがふたつに引き裂かれるように苦しいの。昔のシナの刑罰の車裂きの刑―まるでそれにかかっているみたいよ。ああ、私はいつ、いつそんな悪いことをしたのかしら。…ね、私いつでも思うんです。日本軍と中国の軍隊がどこかで撃ち合っているとき、私そのまんなかの城壁にかけのぼって大声で叫ぶの。『やめてえ。やめてえ。戦争なんかやめてちょうだい』…そして前と後ろからとんでくる弾丸に射たれて死んだらどんなに助かるだろうって。それが…それが私のたった一つのねがいだわ」
「……」
 私はもう何も言えず、強くわが拳をにぎりしめる。

(『竹久夢二』より)
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2009年10月10日

目下苦戦中

評伝は今回から中国大陸編です。ある程度予想はしていましたが、先の大戦をまったく知らない世代が、その当時の模様を書くことには、想像していた以上の困難がつきまといます。今回は、締切りである火曜日の夕方に新聞社に一度原稿を送ったあと、「あ、この書き方だと誤解を招くかも」と思い直し、深夜に引用部分を変更して再送信、しかし、その後で改めて資料を読み返したところ、重大な事実誤認に気づき、さらに翌朝、その部分を訂正して三度目の送信をしました。またタイトルも、最初に送ったものは「大陸での日々」、次に「城壁になる男たち」、しかし最終的には「興亜新劇団」と3回も変更しています。こちらの勉強不足もありますが、平時とは違う状況をきちんと伝わるように書くのは本当に難しいです。特に戦争に関しては、体験していない者に、その様子を眼前の光景のように描くことは不可能でしょう。

青江は、雑誌の対談で当時のことを次のように語っています。
新聞記事で見ますと、戦争というのは朝から晩までアゴ出して、行軍しているかのごとき書き方をしますけど、そういう時期もあるけど、そうでない時は実に楽なんですよ。内地で飲めない酒がワンワンきて、うまいものはあるし、「安居楽業」ということばは、前線の軍人にして初めて味わえ得ることなんですね。ですから年がら年じゅう撃ち合いはしてやしない。目をつりあげて鉄兜かぶって、敵をにらんだりしてないですよ。しかし、やっぱりそれが戦争だと思うんですね。戦争ってものはね、緊張の連続じゃないんです。異常さの中にあって、それが日常化してしまう。それがこわいんだなあ。
(1970年8月号『新日本』座談会「大東亜戦争を語る」より)

一度読んだだけではわかりにくいかも知れませんが、「戦場では異常さが日常化する」というのは、それを体験した人間ならではの言葉だと思います。なお、青江は『大日本軍宣撫官』という単行本を書いているため、青江自身も宣撫官だったのではと誤解されることもあるのですが、青江は、自分の意志とは関係なく、徴兵されて戦地に送り出された召集将校、一方そのころの宣撫官は自らが望んで戦地に赴いた志願兵で組織されていましたから、モチベーションがまるで違います。しかし、連載にも書いたように、青江が彼ら宣撫官のひたむきな生き方に大いに心を動かされたのは事実のようです。
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2009年10月04日

24〜26回分をアップしました

ここ数回分の連載画像をアップしました。
異端の劇作家 青江舜二郎

24 河口@(9/12)
25 河口A(9/19)
26 河口B(9/26)

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2009年10月03日

少尉殿を激励

今回の評伝では、中国大陸に渡る前、青江が故国に残した作品や仕事について書きました。「日本教育紙芝居協会」は、紙芝居の歴史をひもとく時には必ず名前が出てくる団体で、もう少し詳しくその活動について書きたかったのですが、スペースの関係で断念しました。

そして、「一葉舟」ですが、これも「河口」に比べると、ずいぶん簡単にしか触れられませんでした。この作品が花柳章太郎の熱心な要望によって完成に至ったことは書きましたが、花柳が秋田の連隊に青江を訪ねてきた時のこと、原稿を送ったところ、そのお礼にと、彼個人から400円(当時の青江の給料の約半年分)が送られてきたことなどには言及できませんでした。このあたりの、青江と花柳のほのぼのとした交遊エピソードは、青江自身の筆になる「宿縁久保田万太郎」に詳しく書かれています)。

なお、1939年の1月に久保田万太郎と深田久弥が青江を訪ねたことについても「宿縁久保田万太郎」に詳しく描かれていますが、その時の模様をスクープ(?)した秋田魁新報の記事を、この場で紹介しておきます。

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二作家きのふ 少尉殿を激励 青江氏と久濶叙す

[既報]石坂洋次郎氏の「若い人」普及版出版記念会に出席すべく、山本改造社長と同行した作家久保田萬太郎、深田久彌両氏は長谷川部隊に天晴「少尉殿」として入隊中の秋田市の人大島長三郎氏、実は青江舜二郎のペンネームを以って創作をもなし殊に演劇に深い関係をもつ同氏を尋ねて激励に。十一日来秋、同夜田中町松華亭で大島氏と久し振りの交友を温めた。久保田氏は羽越線にて冬の日本海岸風情を味わふべく途中象潟辺か、温海へ宿泊の予定で、深田久彌氏は更に県北の雪の八幡岱に赴き二、三日スキーを楽しむべく別々に出発の筈。(右より深田氏、久保田氏、青江少尉)

(「秋田魁新報」1939年1月12日)


青江は風邪を引いたといって演習をさぼり、二人と料亭で酒を飲んだのですが、翌日の新聞にこの記事が載ったため、上官にばれて油を絞られたといいます。この1939年1月は、2日から4日まで「河口」の演出家の北村喜八と装置の吉田謙吉が秋田を訪ねていますから、青江にとっては千客万来の新年だったようです。と同時に、親しい人がこれだけ次々訪ねてくるということは、いよいよ出征も近いのだ、と青江自身も感じていたかも知れません。
評伝も次週から、舞台は中国大陸に移ります。
posted by 室長 at 12:36| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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